「育児と仕事の両立をするなかで、母としてどう在るのがいいのか」迷っていたとき、
たまたま取材でお目にかかった作家さんの言葉にハッとして、肩の力が抜けた体験談。
アラ還のいまも、
何かに迷ったときや、
人生に「答え」はないのに、つい誰かが作り上げた「答え」にとらわれてしまいそうになるとき、
わたしらしく生きるための指針になっています。
当「愉快に生きる」シリーズでは、 わたしらしく愉快に生きたい!と願う元新聞記者アラ還母が、人生や子育て、仕事、日常生活のなかで、困ったり迷ったりしたときに助けられた「愉しく生きる知恵」や「癒やされた考え方」や方法を、エッセイとともに綴ります。
第3回エッセイ これが、精一杯のわたしです!
明け方の泣き声
明け方、泣き叫ぶ声で目を覚ましました。
どこから、聞こえてくるのだろう。寝室の窓を閉めていても聞こえてくる、家がひしめき合った住宅街に響き渡る子どもの泣き声。いや、泣き叫ぶ声。2,3歳の幼児? 男の子かな?
一瞬、虐待かと思い、じっと耳を澄ませました。泣きすぎて、むせ返りながら、なにか言っています。集中して聞いてみると、その子は、
「もう一度、ママに抱っこしてもらいたかった~」と言って、泣き叫んでいるのです。
だれか、父親か祖父母か、大人が何人かで面倒を見ているような気配も伝わってきて、どうやら虐待ではなさそうだと安心はしたものの、
こんどは、その子の境遇について頭がいっぱいになってしまい、眠れなくなってしまいました。
その日から、連日、明け方になると、 「もう一度、ママに抱っこしてもらいたかった~」 と延々と繰り返して訴える泣き声で目が覚めました。
もうママが居なくなってしまったのか、一時的に離れているのか、居ても抱っこできない状況なのか、抱っこしない主義⁈なのか、想像は果てしなく膨らみます。
とにかく、いま、どうしてもママに抱っこしてもらいたいのに、抱っこしてもらえていないことは伝わってきました。
ママ、どうしたんだろう。
日中も気になって、胸がザワザワします。どこのご家庭かもわからないけれども、いずれにしても、きっと助けが必要だと思い、児童相談所に連絡しようとした矢先、パタリと泣き声は聞こえなくなりました。
代わりに、ママとかしら?誰かと遊んでいる愉し気な笑い声が聞こえてきたから、ホッと一安心。
パパでもおばあちゃんでもなく、誰あろう、ママに抱っこしてもらいたかったんだね、そう思ったとき、
ああ、これが、わたしの難問だった!と、一瞬、25年前に記憶が飛び、
結局、いまも、この問題の答えは分からないままだな、と思ったのです。
育児と仕事のはざまで
わたしが出産したのは、新聞記者になり8年目。
育児休暇を取得したわたしは、職場復帰を間近に控え、保育園の入園説明会のために、家から徒歩20分ほどの道のりを保育園に向け歩いていました。
抱っこひもでしっかりと10か月の娘を胸に抱きながら、頭の中は、
「本当にこのまま進んでいいのかな。保育園に預けることにして、間違っていない? わたし、できるの? この子にとって、この決断はいいことなの?」と、何が何だか収集つかないごちゃごちゃ状態で、
「ああ、わからない! どうしたらいいの~」と心では、もう泣いていたんだと思います。
ふと、目を落とし、娘の顔をみて、ハッとしました。
娘の顔は心配そうにゆがんで、なにか言いたげに私を見上げていたのです。
「ママ、どうしたの? 悲しいの? 嫌なことが起きるの?」そんな言葉が聞こえてきそう。
わたしは慌てて平静を装い、顔中に即席の作り笑顔を貼り付けて、
「これから保育園に行くんだよ。きっと楽しいよ♪」と、娘に向けて、そして、自分に向けて、声に出して言いながら、心の声をどうか娘が察しませんようにと祈っていました。
子どもを産んでも新聞記者の仕事を続けることを、まったく悩むことなく、ごく自然に決めて、いろんな手続きは順調に進んでいました。が、いざ、復帰を目の前にして、果たして、わたしの心は決まっていたのかどうか。
どこか不安を抱えたまま職場復帰したわたしに、追い打ちをかけるように、次々とパンチ👊が飛んできました。
「週に2回だけ、午後7時に閉園する保育園に娘を迎えに行きたい(ほかの日はベビーシッターさんに任せて深夜まで働けます)」と直属の上司である社会部長に相談すると、
部長は心底あきれた顔をして、「そんな働き方は、一人前の記者がすることではない」とストレート!さらに、畳みかけるように、「職場に迷惑をかけているのだから、いっそ、育児に専念したらどうですか。娘さん、かわいそうに」と別角度からのジャブ、
夫婦共働きの先輩男性は、「わが家みたいに、子どもなんておばあちゃんに任せちゃえばいいんだよ~。そうしたら今まで通り、朝から晩まで働けるYO」と、軽ーい調子でフックを繰り出してきます。
これが、当時の新聞社。
たとえ法整備がなされていたとしても、現場では、ワークライフバランスなんて全く理解されないのは重々承知していたし、
そのうえで復帰をしているのだから、男社会が作りあげた古ぼけた価値観による、さまざまな弊害や攻撃は覚悟していました。
しかも、直属の上司が特別に意地悪でアンラッキーではあったのですが(ごくわずかですが、わたしの働き方を理解し、助けてくれた上司もいました)、
そんなものにKO負けはしない!
これから母になる後輩記者のためにも踏ん張ってやる!
負けるもんか!!
けれど、
心にパンチを食らったのだとしたら、それは、わたしの心が揺れていたから。
ママじゃなきゃダメ⁈ これが、難問
育児は母親だけがするのでなく、父親はもちろんだけど、社会全体で支えあい協力してするべきだと、そんな記事をたくさん書いていたし、その通りだと思っています。母だけに育児の重責があることで、育児ノイローゼや虐待といった状況も起きていて、そんな母たちを救いたい! 母も幸せに、子も幸せに、そんな社会にしたい! と、取材を続け、発信していました。
でも、わたしの心が揺れていた理由は、 社会制度や家庭のありかた、慣習や価値観も全部すっかり変わったとしても、それでも、 子どもにとってママって特別なんじゃないか、という根本的な消えない思いがあったから。
☆
ある夜、保育園から帰宅すると、お絵描きをしていた2歳の娘が、「ママぁ~、つねちゃん、かいてっ!」と、ねだってきます。
つねちゃんは月齢も離れた男の子で、一緒に遊んでいる姿を見たことがなかったので、どうしてだろうと不思議に思い、保育園の連絡帳で先生に問い合わせてみました。
すると
その日、園で、「ママぁ~」と言って娘が泣いたときに、
つねちゃんが付きっきりで、「ママが いいのォ~?」(うんうん、わかるよ、ぼくもママがいいよ、ママに あいたいねぇ)と声をかけて、ずっと慰めてくれていたそう。
2歳児共感の姿に、先生もホロリとなった様子。娘は寂しくて悲しかったけれど、うれしくて、忘れられなくて、つねちゃんを描きたくなったんだね。
そんなことがあって数日後、ベビーシッターさんから、こんな報告がありました。
小さい女の子が泣いている絵本をみた娘が、
「ママが いないのぉ~? ママに だっこしてほしいのォ?」と言って、絵本を大事に優しく抱きしめ、絵本(に描かれた女の子)をあやすように部屋じゅうを歩き回っていたそう。
こんなこともありました。
わたしが保育園にお迎えに行くと、園の玄関を入るなり、満面の笑みでわたしに突進して飛びついてくる娘は、
たまーに、父親が迎えに行くと、顔を見るなり大泣きして嫌がり、「実の子ですよ、ほら、顔は瓜二つ、本物のパパですよ」と周囲に言うくらい大変だというし、
大好きなベビーシッターさんのお迎えの時でさえ、
いったんは、その場でバタリと倒れて、ママでなかったショックを身体で表現するそうで💦
これらのエピソードを見聞きして、やはり、ママがいいのかな、ママじゃなきゃダメなのかな。
わたしは、娘に寂しい思いをさせている??
共働き家庭に育ったわたし自身、母の不在が寂しくて、「ママに一緒に居てもらいたかった」という果たされなかった願いが、ずっとずっと尾を引いていて、そのことも、迷い、どこかスッキリしない大きな理由でした。
やはり幼いころに寂しかったという理由で、実弟は、妻に育児に専念するよう希望し、妻もそれを望みましたが、
もし、わたしならば、夫に仕事を辞めるように土下座されても、お断り! 仕事は続けたい!
そう即答できるのに、
一方で、自分が嫌だったことを子どもに強いていない⁈ 幼い娘はママがいなくて寂しいのに、我慢させているよね⁈ そんな思いも消えなくて。
ああ、わたしは、どうしたらいいのか。
忙殺される日々にあって、迷いは、どこかにずっとまとわりついていました。
ところで、迷いが消えないわたしとは全く異なり、夫は、子どもがいても、特に何かに悩んだり苦しんだりせずに日々を過ごしていました。
はて??
なぜ、女だけが迷わなければならなかったのか?
そんな疑問をひもといたエッセイは、こちら↓
答えはない、という答え
「すべき」もないし、「正しい」もない
ある作家さんにインタビューした際、別れ際の雑談をしていて、つい、
このままでいいのか迷っていて答えが出ません、と漏らしてしまいました。
新聞記者の仕事は続けたい。が、母親がほとんど一緒に居ないことで娘にはどんなに寂しい思いをさせているだろう。わたしはどうしたらいいのか、正解が分かりません、と。
母親でもある作家さんは、優しく目を細めて、
「迷っているままでいいのではないでしょうか。もし、答えがあるのだとしたら、答えを出そうとしてあれこれ迷い考えていること自体が答えのような気がします」と静かにおっしゃいました。
迷っているままでいい、と言われ、
それまで、「どうすべきか」、「何が正しいか」と、白黒ハッキリつけないと気が済まないわたしには衝撃的で、
「すべき」もないし、「正しい」もない、
そっか、答えはないのか、と思ったら、フッと心が軽くなりました。
考えたら当たり前で、そもそも「人生」には正解なんてないんだから、「育児」にだって、「母の在り方」にだって正解も不正解もない。
なのに、わたしは、なにを得ようとしていたのか? 力が抜けて、笑っちゃった。
目の前の毎日を、よくわからないまま、不格好に必死にドタバタと過ごせば上出来!ってことですね。
子どもを悲しませたり、泣かせたり、喜ばせたり、笑わせたりして、
わたしも困ったり、泣いたり、不満たらたらイライラしたり、笑ったりしながら、
いろんな気持ちを混ぜこぜで抱え、色とりどりに織りなす日々を、迷ったまま進みます!
「わたしも同じですよ」と微笑む作家さんに見送られて、きょうのことは、きっと、わたしは忘れないと思いました。
「誰かの答え」に執着するな!堂々と分からないまま進め~ 「それが、わたしだ!」
子育てばかりでなく、これまでの人生すべてにおいて、
どうしていいか分からなくなったり、納得しようとしても受け入れられなかったり、分かっていてもイライラしたり、やり場のない気持ちを、何度も何度も味わいました。
そのたびに、作家さんの言葉を思い出し、
思い込んだ「正解」に、「わたし」を当てはめようとしていないか、
世間や常識という「誰かの答え」に、執着していないか、
そう自分に問いかけて襟を正しても、
すぐにまた、誰かの作った「正解」や巷にあふれる「あるべき姿」が、「正しい答え」のような気がして、目がくらんでしまったり💦 そんなものは、幻なのに。
つくづく、「母の在り方」も「仕事の仕方」も、「人生」はすべて、人それぞれ違って、ひとりひとり全く異なる「いのち」を生きているのに、「こうすれば、幸せになります」なんていう教科書もどこにもないのに、
アラ還になってなお、わたしは、何かにとらわれそうになる。とらわれると苦しくなると分かっているのに。
でも、
「それもまた、わたしなんだ!」と、開き直ってみたりして。
分からないまま進め~、堂々と迷いながら進め~と、自分で自分の背中を押しています。
あとがき
「母としてどう在るのがいいのか」迷っていたとき、
取材でお目にかかった作家さんの
「迷っているままでいい。迷い考えていること自体が答え」という言葉に、
「どうすべきか」、「何が正しいか」と、白黒ハッキリつけないと気が済まないわたしは衝撃を受けました。
「すべき」もないし、「正しい」もない、そもそも「人生」には正解なんてない。「育児」にだって、「母の在り方」にだって正解も不正解もないと気づかされ、
なのに、わたしは、なにを得ようとしていたの?
そう思ったら、 フッと肩の力が抜けました。
仕事を辞めて専業主婦になり、海外生活を経て、更年期を過ごし、アラ還になった今も、
「どうしていいか分からない」と迷ったり苦しいときは、
「分からないのが当たり前」「正解も不正解もない」と頭を切り替えて、
わたしだけじゃない、人類史上、誰一人、分かっていないもんねっ(^^♪、
そう考えるようになったら、ちょっと愉しくなってきました。
「分からないまま、ここに居る」のが「人生」なのさぁ~♪
一色だけでなく、いろんな色があふれている人生を、これまた、いろんな色が混ぜこぜになっている気持ちを抱えて、
覚悟や決意や理想や目標や、そうしたものが揺らぐのも当たり前で、ときに立ち止まり、うつ向いて、また顔をあげて、
堂々と迷ったままで、堂々と分からないままで、
「これが、わたしだ!」「わたしの精一杯だ!」と、胸を張って、目の前の「いま」を生きていこう☺
アラ還母が実践しているリラックスの方法を「セルフケア&セラピー」シリーズで各種、お福わけしています。
ご自分に合った方法を是非お試しください!