反抗期や思春期の子どもはもちろん、いくつになっても親子関係は一筋縄ではいかない。
アラ還になっても、親に「ありのままのわたし」を分かってもらいたい、という気持ちはあるけれど、
いざ、親になり、いま、母として思うことは、
子どもをありのまま受け止めたい!と頭では分かっているが、なかなか難しい~💦ということ。
そこで、
「子どもをありのまま受け入れるために親ができること」を専門家に聞きました。
「親に分かってもらいたいのに、分かってもらえない(T-T)」という、わたしと同じ思いをさせないために。
専門家によると、
子が20代~35歳くらいまでならば、
親が子へのかかわり方を変えることで、親子関係は育て直せて、
「どんなあなたも大好き」と子どもに伝えることができるそうです
子への関わり方を変える?
具体的にはどうするのかな?
今回のエッセイは、
自分で「自分の人生」を取り仕切っている感覚を味わいながら生きて、それを親に分かってほしい、
そして、
同じように、「自分の人生」を生きる子どもをありのまま、まるごと受け止めたい!というお話。
親も自分の人生を生き、子も自分の人生を生き、互いに認め合うために
当「愉快に生きる」シリーズでは、 わたしらしく愉快に生きたい!と願う元新聞記者アラ還母が、人生や子育て、仕事、日常生活のなかで、困ったり迷ったりしたときに助けられた「愉しく生きる知恵」や「癒やされた考え方」や方法を、エッセイとともに綴ります。
第4回エッセイ ママの平日に「ローマの休日」
待たなかった出来事
母の帰りを待つ。母の迎えを待つ。母の休日を待つ。母の笑顔を待つ。
子どものころのわたしのキーワードは「待つ」。
夕方、誰もいなくなった薄暗い神社の片隅で、小さな鉄棒をギュと握りしめ、8歳のわたしは、なんどもなんども逆上がりをしていました。
逆上がりを、もっと練習しなきゃいけないんだも~ん、もっと速く回るようになりたいからだも~ん、
誰もいないし、ましてやだれも聞いてこないけれど、頭の中で、この一人ぼっちの状況に言い訳しながら、寂しさを蹴散らすように硬く乾いた土を蹴っては身体をグルリグルリと回転させていました。
気づくと、腰の曲がったおじいさんが、近づいてきていて、
「ひとり? もう暗いよ、大丈夫?」というようなことを二言三言、話しかけてきました。
「すぐ、お母さんが迎えに来るから! もう来るから。大丈夫!」と、わたしは早口でまくしたて、迎えが来たかのように駆け出しましたが、お母さんはきっとまだまだ来ないと分かっていました。
その後、どうしたか全く覚えていません。が、これは、子ども時代のわたしの、ごくごく普通の状況でした。だいたい、わたしは、母を待っていましたから。
そんなわたしが、一度だけ、待たなかったことがあります。
大学進学のために実家を離れることが決まっていたころだったかと思います。
その日は平日で、いつも通り、母は出社する支度をしていたはずですが、わたしは、どうしても、母と一緒にレンタル映画を観たかった。その気持ちが譲れなかった。
なぜ、映画なのか、なぜ、その日なのか、まったく思い出せませんが、
たぶん、母と一緒に居られるならば映画でなくても何でもよかったし、その日にこだわったわけでなく、毎日ずっと言い出したくて言えずに、その日になってしまったのだと思います。
母は仕事人間で、幼少期からめったに子どもと遊ぶことはなく、母自身の都合が最優先、子どもの都合にも合わせるタイプではなかったので、この日、どんなふうに、母に提案して、母がなぜ承諾したのか、どんな会話があったのか、どうやって「ローマの休日」に決めてレンタルしたのか、なんにも覚えていません。
覚えているのは、
母が途中で席を立ってしまうのではないかと気が気ではなかったこと、泣いたり笑ったりして見入っている母の横顔を見てホッとし、無事に観終わったときには、ものすごく安堵したこと。
こんな時間が、もっともっとあったらよかったのにな、
母と同じ場面で驚いたり、笑ったりすることが嬉しくて、母とつながっている感じがして、なんとも温かくほっこりと、代えがたい安心感がありました。
「わたしが決めたことを、母と一緒に笑ったりおしゃべりしながらする!」という、ささやかな願い。
どうしてそんなことを願ったのか、今も分かりませんが、そうしたかった。
仕事をさぼった母と一緒に、平日に『ローマの休日』を観たことが、「わたし主導」で母と過ごした唯一の嬉しい出来事として、大きく記憶に残っています。
母からは、「あら、あなたに合わせてばかりいて、仕事との両立が大変だったわよ」と言われそうだけれど、
わたしにとっては、母が割りふった時間の中で、母を求めて待っているばかりの毎日だったから。
母子の関係 どんな絵が描けますか
天真爛漫、愉快で豪快、どこにいっても輪の中心にいる母で、子ども心に、「お母さんは子どもへの関心より、自分自身への関心が強く、子どものことは二の次にしている」と感じていて、時として母を信じられずに、憤慨し、批判し、反抗することも多く、育ちました。
大人になっても、いや、つい最近まで、「ああ、やっぱり、母にはわたしのことは分からない。母は子育てをしていないから、わたしのことを分かるはずもない」と非難し、無駄に歯向かってしまうようなところがありました。
一方、取材先で知り合ったA子さん(50歳)は、わたしとは全く違う「母娘の関係」です。
50歳を過ぎても、「母親は絶対的存在で、何でも知っていて、正しい」と信じ込んでいたと述懐。
仕事選びも結婚相手も友達選びも、今日着ていく洋服や巻いていくスカーフすら、母親が「いいわよ」とOKを出せば安心、間違いない。この世で最も信頼できる相談相手は母親で、何かあれば必ず母親の意見を求めて、母の言うことを聞いていればうまくいくと思い込んでいた。それで、うまくいかないことがあっても、それは、自分が母の言うとおりにできなかったからだ、そう考えていたそうです。
「でも、母は、実は何も分かっていなかった!」
驚き落胆し怒りまじりでつぶやくA子さんの顔をみながら、なんと、まあ、大人になりアラ還を迎えてもなお、わたしたち、母娘の関係は難しいのかと改めて思いました。
わたしは何か困ったことがおきても母に相談するなんて思いもしないし、悩み事を打ち明けたことなど一度もありません。だから、母親を信頼してなんでも打ち明けられるA子さんが羨ましいような、いや、母親の価値観や理想を押し付けられるのは勘弁だ~と思ったり。
母とわたしの関係を描くとしたら、
母の後ろ姿を追いかけて、前を行く母が振り向いてくれるのを待ちながら、ようやく束の間振り向いてくれても全然もの足りずに、いっそ母を追い越して、待ち構え、両手を大きく広げて通せんぼし、
「お母さん、待って!一緒に居てほしい」とは決して言えずに、「お母さんなんか大嫌い!」と、不満が爆発している自分の姿です。
一方、
A子さんは、母親との関係を、
母がさす雨傘の下で、大きな母に小さい自分が大事に大事に包まれ、見下ろされて一緒にいる感じ。
晴れているのに、と表現しました。
自分で自分の人生を取り仕切る生き方をしたい!
母となったわたしは、どんな絵に描かれる?
母になったわたしと、娘の関係性を表すならば、どんな絵が描けるだろうか。
娘は一体どんな絵を描くかな。と頭を巡らせて、ハッとしました。もうずいぶん前のことですが、中学生のころの娘の言葉を思い出したのです。
「ママの思い描くわたしの幸せと、わたしが思い描くわたしの幸せは、違うよ。ママの考えを押し付けないでね」
これにはびっくりしました。
なんてこった!
「永遠の反抗期」のように、親の言うことなんかことごとく逆らってきたわたしだったのに、
娘には、わたしの描く幸せを押し付けていた ⁈
いつの間にか、無意識に、大きなわたしの傘を娘にもさしかけて、わたしの傘の下にいることが娘の幸せだと思い込んでいた⁈
自分の母のようにはならない!と決めて、子どものことを第一に考えて、子どもを優先して、この子の幸せのために、と、あれこれ考え、調べて、アドバイスして、良かれと思って気をまわして、、。
A子さんのお母さんと自分が重なりました。
当時のわたしは、
娘から見えていた「自分の姿」にびっくりもしたけれど、「そりゃそうだ。娘の言うとおりだ」と納得して反省した気になって、
ただ、「わかった。ママのいうことは聞かなくていい。あなたの思う幸せな生き方をすればいい、ママはそれが嬉しい」と言葉をかけたことを覚えています。
子どもは、親の本心を察する能力が高い が、自分の本心はなかなか言わない
子どもの精神発達や発達心理学を勉強する機会を得て、
わたしが娘にかけた この言葉、「ママのいうことは聞かなくていい。あなたの思う幸せな生き方をすればいい、ママはそれが嬉しい」という、ものわかりのいい、子どもの生き方を尊重する親の言葉が、呪いの言葉にもなることを知りました。
皆さんは、どう思いますか?
「ママの言うことは聞かなくていい」という言葉は、よくよく考えてみると、ママの言うことを聞かなくなったら、ママの言うことを聞いたことになる。
あれれ⁈
これは、「ダブルバインド理論(二重拘束説)」といい、「同時に相矛盾する2つのメッセージを受け取った者が、その矛盾を指摘することができず、しかも応答しなければならない状態」になること。
たしかに、コレ、どうしていいか分からなくなります。
さらに、発達医学に詳しいK先生は、
子どもは、 “ことば” そのままでなく、大人の「行動」や「態度」、「表情」にあらわれる本心を察します。
しかも、子どもは、親の本心を察する能力が高い!!
と強調します。
「あなたの思う幸せな生き方をすればいい、ママはそれが嬉しい」と言いながら、わたしの態度はどうだったかな、、、⁈
うーむ。相変わらず、わたしが考える幸せを押し付けていなかったかどうか。
「ママの言う通りにしたほうが、きっと幸せ」という見えないビームを浴びせて、そういう態度をとり、表情をしていなかったか ⁈
娘には、「ママの思い描く道を進んでくれないと、ママは悲しむ」という呪いのメッセージとして伝わっていなかったか ⁈
大好きなお母さんを怒らせたくない、お母さんに笑っていてほしい、その一心で、「自身が思い描く幸せな人生」ではない、「親が考える幸せな人生」を生きようとしてしまったら??
親にとったら、理想的な「いい子」になるかもしれない。
でも、本人は、自分を殺しているのだから苦しいのは当然で、あるいは、「親が考える幸せな人生」から少しでも外れたら、いまの自分をどう感じるのだろうか。
A子さんは、「母はいまだに、わたしの生き方には納得していない」と悲しそう。
結婚を機に仕事をかえて、パートタイムで働くA子さんに、お母さんは、
「お友達の〇〇さんは、いまも△社で大活躍しているそうよ、すごいわね、◇◇さんのお嬢さんは海外で支社長ですってよ、偉いわ~とか、それはそれは羨ましそうに話してくる」のだそうで、
「わたしは自分の働き方で満足しているのに。母はわたしを認めていない。いまのわたしではダメで、もっと何かしなきゃいけないような焦りを感じます」。
A子さんのお母さんはただ、近況報告と感想を伝えただけかも知れない。けれど、A子さんには相当な重圧。
「お母さんは何にも分かっていないのだから、もう、わたしのやることに口出ししないで!」と怒鳴りたいけれど、年老いて弱った母親の姿を見ると、何も言えなくなるそうです。
分かる! アラ還のわたしも、80歳をとうに過ぎた母には、溝も感じ残念な気持ちもあるけれど、何も言えません。
諦めたのか、納得したのか、いまさら老親に何を言っても始まらないと感じているのか、母を不憫に思うのか、モヤモヤしたまま、自分のことなのに分かりません。
K先生は、
「こどもの言葉は、うらはら。だから、子どもが隠している感情や本心を受け止めることが大事」というけれど、
親に従順なまま50代になったA子さんも、
万年反抗期アラ還のわたしも、
子どものころから大人になっても、
まだ、母親には、「本音」という一番投げたいボールを投げられない。
「わたしと向き合って、心からわたしを理解し受け入れて、大好きでいてほしい」、
それだけなのに。
わたしたちの言葉は、本当に、うらはらです。
さて、
親となったわたしは、
うらはらな言葉に隠された、娘から投げられる「本音」という名のボールをつかみ損ねていないか、
つかみ損ねても、拾い上げて投げ返せているか、
なにより、
「本音」というボールを投げたい! と、娘が思える親でいるだろうか。
子どもの人生を、親が支配している⁈ と気づいたら、すること
親子関係は、育て直せる! 今からでも遅くない!
親の考える幸せを子どもに押し付けてしまった! 子どもへのコントロールが強すぎた!と自覚したり、
“毒親”じゃないかしらと反省したとき、
あるいは、
子どもの心が分からない、どうやったら心を通わすことができるのかと途方に暮れたとき、
思春期や反抗期の難しい時期にも、
子どもから投げられたボールを受け取って、しっかり投げ返すために、
子どもがボールを投げたいと思える親でいるために、
今からでも遅くない! 子どもとの関係性を結びなおす、専門家に取材した知恵をお福わけします。
まず、子どもの精神発達に詳しいK先生は、
「20代(人によっては35歳くらい)までは、”過去の課題”をやり直すことができます。
そうすることで、親子関係を築きなおせます」と言い、
発達心理学者エリクソンが提唱する「発達の課題」について教えてくれました。
子どもの発達段階、それぞれの課題に取り組む
発達心理学者エリクソンによると、
ひとは、乳児期から老年期まで生涯を通して成長をしていき、それぞれに発達の課題があり、
特に、3歳までの養育者とのかかわりは大切で、児童期以降の発達に大きく影響するといいます。
養育者ですよ、ここ大切!
わたしが育児をしていた30年程前には「3歳育児神話」という「母」のみに育児の責任を押しつける ”神話” がありましたが、
実は、当時から「母親がひとり密室育児をするより、生後4ヶ月くらいから集団保育をする方が発達に良い」という ”学会の常識”もあり、
母親が孤立した育児は限界があることが言われていました。
ですから、養育者とは、
母だけでなく、子育てに関わる特定の大人を指します
発達の課題は、
例えば、
0~2歳までは、
特定の大人との間に、愛着関係が構築され、
『自分が泣いたら来てくれる』という経験の繰り返しを通して信頼と安心が育まれ、
時には要求が満たされない経験を通して自我が目覚め、自己の存在を確信していく。
『自分が泣いたら来てくれる』という経験がなかったり、バランスがうまくいかず安心感を得られないと、児童期以降の絶望感や抑うつ感に結びつく。
3歳ごろ~には、
大人の手助けを得ながら、成功と失敗を繰り返し、自己をコントロールする力や自分で判断する力がつく。
大人のコントロールが強すぎると、自分の判断に自信が持てず、他者の顔色をみるようになったり、キレやすくなる。
5歳ごろまでの幼児後期は、
同世代の子供との関わりが増え、外の世界に興味を持つ時期で、自発性や自主性のある積極的な活動を通して、自発性と罪悪感のバランスが図られる。
子どもの自発性や自主性のある積極的な活動に対して、大人が嫌な態度を取ったり、過度に厳しくしつけると、子どもは「罪悪感」を覚える。 自発的な活動を妨げられ、不信、恥や疑惑、罪悪感が優位のまま児童期に入ると、 「できる自分」と「できない自分」の両方を受け入れられずに、 劣等感や不全感が強くなってしまう。
これらの課題のなかで、うまくいかなかったかも⁈ と気づいたことに、
子どもが20代~35歳くらいならば、あとからでも取り組めば、子の発達の育ち直しができ、関係性の築き直しができます
と、K先生。
また、小児科医ウイニコットは、
乳幼児期の「母親との身体的な相互作用が、自己感覚の土台となり、生涯にわたる自己同一性感覚の基礎も固まる」と主張し、
「母親が子どもの衝動や欲求に応えないと、子どもは体の中で感じたことを否定し、自分がどこか間違っていると認識するようになる」といいました。(この先生は、母親に限っているみたい、、、💧)
さらに、その後の研究者たちにより、
「子どもの安全地帯として機能し」、
「不安な時に必ず守ってくれる頼れる存在=おまもりである」という養育者とのつながりがあるかどうか、
そのつながりのパターン(安定、不安定)によって、
子どものこころのありかたや、ストレスへの対処の仕方に大きく影響することが分かっています。
親は、「子の安全地帯」であることが、何より大切なんですね~
「抱っこぐせ」がつくから泣いても抱いてはいけない、放っておけ!とか、
「がまんが大事」だから、わがままは許さない!とか、
わたしが子ども時代、周りの大人たちは「子を甘やかしてはいけない」「子どもの要求には応えない」という育児だったような気がします。
そんなふうに、厳しさ過多に育ったわたしは、大人になり、「子の安全地帯」になるのが難しかった💦
子どもを支配するのではなく、子どもの ”安全地帯” に
子どもとの関係性を結びなおし、親は、自分の考えを子どもに押し付けたり、子どもを支配するのではなく、
子どもの安全地帯となり、
子どもは安心感をもって、自分で自分の人生をコントロールして、それを親は応援する、
そんな親になりたいけれど、
もう乳幼児ではないわが子を前に、エリクソンさん ウイニコットさん のいう大人の在り方や子との関わり方を、どうやりなおしたらしたらいいのか。
具体的にはどうしたらいいの?
あなたの人生はあなたが取り仕切っていいというメッセージの与え方 子どもの安全地帯になる方法
子どもが好きなことを 子ども主導で、一緒にする!
子どもと親の関係に詳しい専門家S先生は、
「そのままのあなたが大好きだよというメッセージを、言葉でなく、態度で伝えてみて」とアドバイスします。
はい、だから、それが難しいんですよ、先生。
親も人の子、
自分の親に対しては、ありのままの自分を受け入れて大好きでいてほしい気持ちがある、50代になっても還暦をすぎても消えずにある、
だから、子どもに対しても、子どもをそのまま まるっと受け入れて応援する親でありたい、本当にそうしたい、頭では分かっている、
でも、心が「わたしの考える幸せ」を手放せない、その本音が無意識に態度に現れて、子どもには伝わっているんじゃないか、
すくなくとも、親であるわたしの心と頭が乖離して苦しくなる、どうしていいか分からなくなる、、、。
そんな母親の声を、わたしは取材でも周囲からも、たくさんたくさん聞いてきました。もちろん、わたしもそのひとりでした。
どうしたらいい??
S先生は、にこりと笑って、
お子さんが好きなこと、お子さんがやりたいということを、お父さんお母さんが一緒にやってください
あ、それ! ローマの休日!
高校3年生のわたしが観たいといった「ローマの休日」を、母が仕事をさぼって一緒に観た幸せな時間、あの空間が頭の中に広がりました。
ああ、たしかに、あのときのわたしは、
「この満たされた感覚がずっと続いたらいいな、もっとあったらいいな。そうしたらどんなにか心強く、安心なのに」と感じていました。
大げさに聞こえるかもしれません。
でも、
高校生になっていても、高校生だったからこそ、
些細な日常のなかで、「自分がやりたいことを、自分が決めたとおりに、親が一緒にする」という体験は、いまも忘れられない、貴重で、佳いものでした。
乳幼児ではないけれど、あの時味わったあの感覚を、たくさんたくさん、いくつもいくつも継続的に経験したら、
親の押し付けでなく、子ども自身が主になり、親と一緒に楽しむ経験を続けたら、
きっと、
誰のものでもない自分の人生を生きる喜びを味わい、
そんな自分を、愛する親がちゃんと受け入れてくれている安心感につながっていくのではないかな。
この方法は、発達心理学者エリクソンが提唱する「発達の課題」の「赤ちゃん~5歳くらい」までの発達課題を、
ごく自然に、もう一度、体験しているのですね
「発達の課題」(再掲)
0~2歳 『自分が泣いたら来てくれる』という経験の繰り返しを通して信頼と安心が育まれる。 ↓↓ 『自分が泣いたら来てくれる』という経験がなかったり、バランスがうまくいかないと、児童期以降の絶望感や抑うつ感に結びつく。
3歳ごろ 大人の手助けを得ながら、成功と失敗を繰り返し、自己をコントロールする力や自分で判断する力がつく。 ↓↓ 大人のコントロールが強すぎると、自分の判断に自信が持てず、他者の顔色をみるようになったり、キレやすくなる。
5歳ごろまで 自発性や自主性のある積極的な活動を通して、自発性と罪悪感のバランスが図られる。 ↓↓ 子どもの自発性や自主性のある積極的な活動に対して、大人が嫌な態度を取ったり、過度に厳しくしつけると、子どもは「罪悪感」を覚える。 自発的な活動を妨げられ、不信、恥や疑惑、罪悪感が優位のまま児童期に入ると、 「できる自分」と「できない自分」の両方を受け入れられずに、 劣等感や不全感が強くなってしまう。
確かに、「子どもがやりたいことを、子どもが決めたとおりに、親が一緒にする」ことは、
上記の「乳幼児への関わり方」の「子ども・成人版」だね。
子の要求に応え、子が判断し仕切るやり方に従って、子の自主性に任せてみよう~
子どもが中高生だとしても、20代になっているとしても、
違和感なく親子関係を育てなおせて、
親は、子どもに、
「自分の ”好き” を生きる、そのままのあなたが大好きだよ」
というメッセージを伝えることができるのではないかと感じています。
親は、ごちゃごちゃ考えずに、こどもの好きなことを知ることから始めたい
子どもの好きなことを親は嫌いだったり、不得意かもしれない。だったら、なおさら、子どもに教わって、それが無理なら、ふだんは、そっと傍らで、子どもの様子を見守りながら、興味をもって人知れず学んでいれば、あるとき、スッと会話が生まれるかもしれない。
子も親も、子どもの好きなことを一緒にして、愉しめたらいいな。
わたしは、かつて、娘の反抗期に、ひたすら、娘の好きな漫画を読みふけり、アニメを一緒に観ました。
もちろん、娘のほうが母親より知識も深く愉しみ方も知っていて、わたしは娘から学ぶことばかり。それまで、漫画やアニメは馴染みがなかったわたしは、それらの魅力を知り、どっぷりハマりました。
わたしの母は、ふだんは優先する仕事を忘れ、忙しい平日にもかかわらず、心から「ローマの休日」を愉しんでいました。
それを見る高校生のわたしは満たされました。
子どもが好きなこと、子どもがやりたいということを、親が一緒にすると、いろんな気づきがありますよ!
是非、あわせてご覧ください(^^)/
あとがき
好きなことをするわたし、愉しい気持ちでいっぱいのわたしを、お父さんもお母さんも好きなんだな、と思える安心感は、
あなたのありのままで、あなたが取り仕切る人生を生きていいんだよ、というメッセージ。
「乳幼児期の親のかかわりが大切」と記す研究はたくさんありますが、
乳幼児期を過ぎても、当時やり残した発達の課題をやり直すことができる、
という専門家の意見を、わたしは大変心強く受け取りました。
だって、児童期、思春期と成長するなかで、親は、子との関係性につまずいたり迷ったり後悔したり、そりゃあもう、いろいろありますから。
子どもが20代(人により35歳くらい)のうちは、気づいたときに、親(特定の大人)が子へのかかわり方を変えることで、親(特定の大人)は子に、安心感や判断力、自信を与えることができるといいますから、
気が楽になりませんか?
その一助となる、専門家から教わった知恵は、
「そのままのあなたが大好きだよというメッセージを、言葉でなく、態度で伝えること。
そのために、 子どもが好きなこと、子どもがやりたいということを、親(特定の大人)が一緒にする」こと。
これが、関係の育て直しになり、
この経験を通して、子どもの中に、「安全地帯」を作ることができ、
子どもは安心して自分の人生を生きていけるきっかけになるそうです。
反抗期や思春期の子どもにはもちろん、
子どもの気持ちが分からなかったり、どう接していいか途方に暮れたとき、
是非、「お子さんの好きなことを一緒に」してみてください!
「どんなわたしでも、親(特定の大人)は、わたしの味方でいてくれる。
何があっても、親(特定の大人)の愛情は変わらずに、ここにある」という絶対的な安心感。
この感覚があれば、大人になって、周りの環境や状況がどんなに悪くなっても、人は歩んでいけると思います。
自分の好きな傘を自分でさして、自由に知りたいことを知り、自由に感じたいことを感じ、自分で自分の人生を取り仕切っているという感覚を味わいながら生きていたい。
そして、いくつになっても、アラ還になっても、愛する人(特定の大人)には、「わたしの好きなこと」「好きなことをしたいわたし」を、まるっと認めてほしい。
このシンプルで、絶対に譲れない大切な気持ちを、
せめて、子どもたちには、
大人の勝手な思い込みや判断、価値観でむげにしてしまわないようにと、肝に銘じています。
ひとりひとりが、その人の幸せを生きられますように。
人生は迷い、分からないことだらけ、テキストも答えもない。
だから、ひとつだけ、
わたしは、
娘が、わたしから「安心感を得ているかな」ということを気にするようになりました。
「あなたが取り仕切る あなたの人生を あなたらしく生きているあなたが大好きだよ」という安心感を。
”できることやできないことがある” ”好きなことや嫌いなことがある” ”したいことやしたくないことがある”
そういう、ありのままのわたしが、わたしは大好き! そして、お父さんもお母さんも、子どもたちも、そういうわたしを大好き!
そう思える子どもには、そう思える大人には、 どんなに世界は安心で、愉快に映るだろう、と思うのです。
アラ還母が実践しているリラックスの方法を「セルフケア&セラピー」シリーズで各種、お福わけしています。心も身体も無理なく、愉しく(^^)
ご自分に合った癒やしの方法が、きっと見つかります。
是非、お試しください!