「ほめる」ことは「あなたが、あなただから愛している」と伝えること        

愉快に生きる

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「ほめられて嬉しかったことは?」と聞かれて、あなたが思い出すことは、
誰からの、どんな言葉ですか。
最近、誰かをほめましたか。どんなことをほめましたか。

子を「ほめる」ことは、

「成果=何かができたから」でもなく、「条件=何かを持っているから」でもなく、
あなたがあなただから、愛している

あなたがあなただから、素晴らしい
と、伝えること

ほめられた経験が積み重なると、子どもは「ありのままの自分を好き」でいられ人生を愉快に過ごせるといいます。


アラ還母
アラ還母

その子であるまま成長し、その子のありのままで生きていけることを、
大人はなんとしても守らなければならない!

それが、「大人の責任」だと、いま、強く思っています



でも、
分かっちゃいるけれど「ほめる」って、難しい💦

アラ還母の体験と、専門家に聞いた「ほめる」ヒントを、エッセイとともにお伝えします。

愉快な仲間
愉快な仲間

支え、応援する「言葉」を、ドンドンかけていきたい

アラ還母
アラ還母

誰かの価値観とは無関係な「わたしの良さ」も必ずある。

誰かの価値観とは無関係な「自分」を「ほめる」ことも忘れずに!

当サイト「お福わけサロン」では、心も身体も健康に、日々を愉快に過ごすための様々な情報を発信しています。エッセイ「愉快に生きる」コーナーで更新しています。



「お福わけサロン」へようこそ
アラ還母(元新聞記者)まやみ佳が、困ったときに専門家から学び実践し癒やされた「考え方」や「方法」、先達が教えてくれた、自分らしく、愉しく生きる「知恵」や「ヒント」をお福わけ。
コラム 愉快に生きる
 当シリーズでは、
わたしらしく愉快に生きたい!と願う元新聞記者アラ還母が、人生子育て、仕事、日常生活のなかで、困ったり迷ったりしたときに助けられた「愉しく生きる知恵」や「癒やされた考え方」や方法を、エッセイとともに綴ります。  

第12回エッセイ 最後のギフトは忘れ得ぬメッセージ

わたしがわたしであるから素晴らしい

老舗旅館の若女将をしていた叔母(母の妹)が33歳の若さで夭逝した、その夜のこと。
わたしは9歳でした。
叔母の自宅に駆けつけると、叔母は、まるで眠っているかのように横たわり、わたしの母がきっと泣きながら施したであろう「死に化粧」は透き通るように白く、普段と変わらぬ美しい叔母が確かにそこに居たことを覚えています。

傍らでは、知らないおじさんやおじいさんが、大勢、お酒をのんで大声でしゃべっていました。

叔母には、わたしより1つ下の8歳の長男、5歳の次男、2歳の女の子がいました。
大人になって叔母を思うたびに、かわいい幼子を遺して逝った叔母の哀しみは、いかばかりだったかと胸が張り裂ける思いですが、9歳のわたしは、「遺された3人のいとこたちを悲しませちゃいけない」と、そればかりを考えていました。

だから、わたしは、流行っていた歌遊びをしようと、いとこたちを誘いました。
いとこたちのほか、その場にいた6、7人の子どもたちは、皆ケラケラ笑って、歌って踊って飛び跳ねて、、、。
ああ、よかった。いとこたち、笑っている、、
そう思った瞬間、

「うるさい! 黙まれ! 非常識にも程がある!」

知らないおじいさんから怒鳴られました。
つられたように、ほかのおじさんたちも「そうだそうだ」「なんて子どもだ」「お通夜なのに」。小さいけれど、明らかに非難する言葉が、わたしたちに向かって飛んできました。

いとこたちも、わたしも、ハッと息をのみ、その場で一瞬固まって、下を向き、その場にしゃがみ込みました。

わたしは、佳いことをしたつもりが大人に叱られ、自分のしたことの善悪がよく分からなくなって混乱し、
「どうしよう、、、いとこたちが、悲しんじゃう」「わたしを怒鳴ってもいい。でも、ママを亡くした子たちを叱らないで。好きなようにさせてあげて」「わたしが、いとこたちのためにできることは何?」と、頭がグルグル回って、心がザワザワして、
わたしはわたしが子どもであることの非力を責めました。わたしの世界は粉々に飛び散りました。

怒鳴られた直後だったのか、しばらく経ってからなのか、どのタイミングだったのか覚えていませんが、
次の記憶は、母との会話です。

愛する妹を長い闘病生活の末に亡くした母は、喪服の上から割烹着を着ていて、お通夜の台所仕事を気丈に取り仕切っていたのでしょう、台所にわたしを呼び、わたしをまっすぐに見て、言いました。

「いとこたちを悲しませないように、遊んでくれたんだよね。優しいね。お母さんは嬉しかった。ありがとう」と。

静かなかすれ声で、でも力強く、叱責されたわたしを「優しいね」と、ほめてくれました。
わたしにとって、なにより揺るぎない真実の言葉でした。

お母さんが、わたしを分かってくれている

それだけで安堵して、嬉しくて、
砕け散っていたわたしの世界は、一瞬で、まわるくまとまりました。

わたしのしたことは、浅はかで無知な子どもの行動でした。が、
生まれて初めて向き合った「死」の哀しみや痛み、悔しさやもどかしさや置き場のない感情に支配されたあの夜にあって、
母からほめられ、満たされた気持ちを持てたことは、わたしが「ありのままのわたしを好き」でいられための、強く太く確かな根をわたしの心に張ったことは間違いありません。

と、同時に、
叔母の倍近くを生きるいま、思うことは、
この体験は、叔母からの愛あふれるギフトだったのではないかということ。

だって、叔母は、どんな時も、数年間に及ぶ病床にあってもなお、姪であるわたしを気にかけ続けてくれていたから。
死期が迫った入院中ですら、わたしの誕生日が近づくと、「何がほしい?」と電話を寄越し、
「病院から出られないから、ほしいものを教えてくれたら、誰かに頼むよ」と、消え入る声で優しく尋ねるのでした。
その声に、胸が詰まって、ただ受話器を握りしめ、欲しいものを答えられなかったわたし。

叔母が選んだ最後のギフトは、決して忘れ得ぬ、わたしを支え続けるメッセージでした。
「大丈夫、あなたのままでいいんだよ」と。

「ほめる」ことは、「あなたがあなただから愛している」と伝えること

ほめられた言葉で、生きていける

嬉しかった「ほめられた記憶」をたどったら、まず最初に、叔母が亡くなった日の、母の言葉が浮かびました。
重く靄がかかったような場で、「母だけはわたしを分かってくれていた」という、あの気持ちは、ずっと、わたしを支えているように思います。

あの夜、あの状況で、哀しみや不条理に包まれた子どものわたしは、
「お母さんは、どうして、わたしの心のなかのことが分かったんだろう⁈」と、世界で一番嬉しくて幸せな不思議を抱くことができました。
50年も前のことなのに、あのときの感情を奇跡のように覚えているし、
それは、わたしがわたしを好きでいられる「自己肯定感」の土台です。

かつて、わたしがまだ子どもを持たないころに、教育の専門家に取材したことがあります。
「ほめる」ことについて、こんなことを教えてくれました。

「子どもをほめることは、親の大切な愛情表現のひとつです。
ほめられることで、子どもは、『自分は認められ、愛されている』と感じることができます」と。

わたし自身の子どものころを振り返っても、本当にその通りで、大いに共感しました。

ほめるときは、自分の価値観を基準にしない

さらに、

「親は、つい自分の価値観で『良い』と判断した点だけを長所としてとらえて、そこをほめてしまいがちですが、自分の価値観に縛られないでください。
親や世間の価値観とは無関係な、『その子の良さ』が必ずあります。それをほめてくださいね」
とアドバイスをもらい、記事にしました。

そして、それは、「言葉」だけでなく、

子どものそばにいて、子どもの話をよく聞き、気持ちを受け止める。
時には抱きしめて、十分なスキンシップをとることも「ほめる」こと=「受け入れ、許し、認める」こと

そうすることで、「子どもは、『わたしがわたしだから愛されている』という経験を積み重ねられ、自己肯定感を育み、その後の人生を、『世の中って、悪くないね!』と思いながら生きていける」のだそうです。

「子どもは、親の言葉や態度を一生わすれないものですよ」と話していました。

親が子を「ほめる」ことは、
「成果=何かができたから」でもなく、「条件=何かを持っているから」でもなく、
まさに、「あなたがあなただから愛している」と伝えることなんですね。

「成果」でなく、「意欲」や「チャレンジ自体」をほめる

最近いろんな場所で、子をほめるときは、「成果」でなく、「意欲」や「チャレンジ自体」をほめなさい、と聞きます。

「成果」をほめられて育った子は、失敗を恐れて「成果」が出ることしかしなくなるのだそうで、
一方、
小さいときから、「チャレンジしたこと自体」をほめると、子は、失敗を恐れずに、いろんなことにノビノビ挑戦し、その後の人生で困難にぶつかっても、かつての親の言葉に励まされて乗り越えていける、親からほめられた経験は心の支えとなるとも言われています。

心が動いた先の「ほめ言葉」?

「ほめられた出来事」に思いを巡らせて、友人にも話を聞いたことがあります。

友人の母親は、とにかくなんでもほめる人。小さいころから、子どもが何かする前には既に「ほめる準備」に入っているのがバレバレだったから、逆に「ほめられること」が、わざとらしくて大嫌いだったと打ち明けます。

あるとき、友人が料理を作ると、母親は、味わう間もなく、いつも通り、用意していた口先だけの「美味しいわね」を発した直後、
「あら、本当に美味しい!!」と、パアッと笑顔になったそうで、、。
母親からは何万回とほめ言葉をもらっていたけれど、このときだけは、本心だと分かって本当に嬉しかった、だから覚えていると教えてくれました。

うん、分かるなあ。幼児ならともかく、ある程度、子どもの年齢が上がると、うわべだけの、心がない「ほめ言葉」や、誰かを思い通りに動かす目的の「ほめ言葉」って、案外、子どもは「見抜く」し、実際、ちょっとした態度を通して、親の本心は子どもに伝わっていますよね。

一方、
育児の専門家から、
「時に、親は、自分の本心や感情とは違っても、子どもを認める『ほめ言葉』をかけることも大切ですよ」と聞いたこともあります。
たとえ口先だけであっても、ほめられて、子どもが嬉しい満たされた気持ちになるのであれば、それは、子どもにとっては、やはり真実なのかな、と思います。

いずれにせよ、
子どもの時も、大人になってからも、いつまでも記憶に残って、その後の人生を支えるくらい威力をもつ「ほめられた」言葉って、「発した人の心が動いた」とわたしが感じとれた・・・・・・・・・「言葉」だったな。

「心」が伝わるほめ言葉は、いつまでも、わたしを励ましてくれています。

ほめられたら嬉しい、でも、ほめるって、難しい💦

取材を通して「ほめる」ことについて、頭では理解し、記事にしたわたしでしたが、
その後、実際、子を持ち、母となったわたしは、心からの「ほめ言葉」をかけてこられたのかな。
果たして、娘にどんな風に「言葉」をかけてきたか。。。

「あのとき、ホッとした」と言われたこと

最近、たまたま、娘と昔話をしていて、娘から、「あのとき、そう言われて、ホッとしたんだあ」と、しみじみ言われた出来事があります。

娘が9,10歳くらいの時の話です。
ある個人競技の試合に毎週のように参戦し、ランキングも順調に上がっていた娘に対して、わたしはいつしか、「わたしが思い描く・・・・・・・・闘い方」を求めるようになっていたのだと思います。
「粘り強く、冷静に、最後まで諦めない闘い方」を。
周囲には、「”怖いお母さん” と ”萎縮している娘”」のように映っていたはず(__)
そういえば、夫からは、「まるで鬼コーチだな」とわたしの振る舞いを揶揄されていましたが、まさに、”鬼”でした。
(そもそも試合など本当はしたくなかった)娘が試合に負けたときは、やる気を感じられない言動や弱気な態度にイライラして「そんな闘い方だから負けるのよ!」などと泣くまでダメ出ししていた記憶が。。。。
娘のなかでは、「勝たないと怒られる」という恐怖になってしまっていた。。。

そんなある日、あるトーナメント準決勝で大接戦の末、娘は負けたのですが、
わたしは、ここに至るまで、娘が日々諦めずに積み重ねてきた「努力」のひとつひとつが思い出されて、
心の底から娘に、
「良い試合だった。素晴らしかった!」「ここまで、本当によく頑張ってきたね」と、気づいたら声をかけ、ギューッと抱きしめていました。

もう15年くらい前のわたしの言葉を、娘は、まるで、さっき聞いたみたいに、
「ああ、本当にホッとした」と、思い出して、胸をなで下ろしていたのです。

そうです。小さかった娘は、ずっと、おびえていたのです。
「ママに、また怒られる」と。
「『ママが理想的だと思っている闘い方・・・・・・・・・・・』をして『勝たないと怒られる・・・・・・・』。ママにほめられるために、勝たなくては!」。
そんな風に思わせていた自分が本当にバカ親で腹立たしい。

わたしは、「親に心からほめられたい! わたしを認めて受け止めてほしい」と自分は思うくせに、
娘を「ほめる」ことが本当に下手くそでした。

わたしが思い描く娘でないとダメ出しをして、わたしが「コレ佳き」と思う言動や「成果」を、ほめていた。いや、たとえ、「よく頑張ったね」と口先で言っていたとしても、娘には、わたしの落胆やイライラがきっと伝わったはずで。。。。いまさら振り返り、後悔の大嵐。

かつて、教育や育児の専門家にたくさん取材し、いろんなアドバイスを記事にして、「知識」としては持っていたけれど、
実際のわたしは、自分の価値観に縛られ
「親の思い描く」娘
になることを、娘に強要していたのです。

本当に、「ほめる」って、難しい、です。

自分が手本になり、示す

こんな子どもになってほしい!と願うならば、一番の近道は、「言葉で言い聞かせるのでなく、
親や大人自身が手本になり、その姿をみせることだ」と、ある方から言われました。
確かに、小さい子どもって、大人の行動をよく見ていて、マネをしますよね。佳いことも悪いことも。

失敗を恐れずにチャレンジする人間になってほしければ、大人である自分がまずチャレンジする。
失敗しても、大丈夫、またやってみよう!と立ち直る姿や、へこたれない姿を子どもに示す。

ある直木賞作家さんに取材をした際、母親でもある彼女は、
「子どもには、格好いい姿をみせていたい。その覚悟を持つことが大人の責任です」と話していました。

大人がどんな風に人に接して、逆境のときにどんな風に行動するか、
大人がどんな生き方をしているのか

子どもはしっかり見ていて、
それが、一番身近な、子どもの ”生き方の教科書” になるといいます。

先の作家さんのような覚悟や潔さのかけらもなかったわたしは、今回もそうですが、ほかのエッセイでも書いてきたように、後悔や反省だらけで、
娘の反抗期を通して、ようやく大切なことに気づき、子育てや「命」について学んできました。

いま、成人した娘をみていて感じることは、
子どもは、その ”生き方の教科書” のお気に入りのページは開くけれど、「わたしはそうは思わない」と判断したページは読み飛ばして、最終的には、パタリと教科書を閉じ、
自分の目で見て、聞いて、感じたことを頼りに、自分の人生を生きはじめるということ、です。

そして、

自分の人生を生きる、その時に、
きっと、支えになる言葉や、力になる言葉が必要
になってくる。

だから、そんな言葉を、たくさん子どもにかけていたい。

わたしが母からもらった言葉のように、アラ還になっても魔法のようにわたしのなかに響き渡る言葉を娘にもかけ続けたい、と心に決めています。

あとがき

「ほめる」ことについて、考えてみました。

親が子を「ほめる」ことは、
「成果=何かができたから」でもなく、「条件=何かを持っているから」でもなく、
まさに、「あなたがあなただから愛している」と伝えること

その子が、その子であるまま成長し、その子のありのままで生きていけることを、親は、大人は、なんとしても守らなければならない、と、いま、強く思っています。

そのために、子を支え、応援する「言葉」を、これからもドンドンかけていきたい🥁🥁。

いまからでも、いつからでも、いくつになっても、決して遅くない。

大人になっても、わたしは、親にほめられたら嬉しくて、「これでいいんだ」「わたしでいいんだ」と安心するから。
最近は、わたしが落ち込んでいたりすると、もっぱら、娘から、「ママはママのままでいいんだよ」なんて言われて、こそばゆかったりして、、、^^;。

心からあふれる、あなたを愛する言葉を、たくさんかけたい! 
あなたの、あなたらしい生き方を応援する言葉を、たくさん伝えたい!

そんな風に、自戒を込めて、思います。

でも、
言葉がでないとき、何を言って佳いか分からないとき、ありますよね。
そんなときは、
ただ、そばにいて、話をよく聞き、気持ちを受け止める。
時には抱きしめて、十分なスキンシップをとることも「ほめる」こと=「受け入れ、許し、認める」こと

アラ還母
アラ還母

「ただ抱きしめる、それだけでいいんです」と
子どもの発達に詳しい専門家に何度も言われました



そして、
自分の価値観に縛られないでください。あなたの価値観とは無関係な、『その子の良さ』が必ずあります。それをほめてくださいね」と言う専門家の声がよみがえるたびに、思うことは、

誰かの価値観とは無関係な「わたしの良さ」も必ずある。それを、ほめなくちゃ、

ということ。

わたしたちは、「自分をほめる」ことを忘れがちで、苦手です。

「誰か」や「世間」の価値観に支配されて、大事なことを見失わないようにしたい。
わたしがわたしであるから素晴らしいという真実。

自分のことを抱きしめて、自分をほめることも忘れずに(^^)

🌷

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