母親に対するマイナスの思いは、どうやったら消えるのだろう。できたら、こんなマイナスの気持ちなんて捨ててしまいたい!、
今回は、そんなことを考えて、もがいてきたわたしのつぶやき。
母に対してだけでなく、
日常的に起きるマイナスの気持ちから解放されたい!
自分を癒す方法は、当サイト「お福わけサロン」の「セルフケア&セラピー」をご覧ください。
わたしが専門家から習い、実践し、心身を助けられている、自分で手軽にできる東洋医学やセラピーの方法や効果をお福わけします(^^)
更年期やアラ還期は心身の変わり目。専門家が教えてくれた自分で手軽にできる心身の健康や癒しのヒントをお福わけ 。日々、助けられています(^^)
第16回エッセイ 母とわたしを巡る宇宙
消えない恨み辛み、何より哀しみ
わたしは、物心ついたときから母を信じられず、母に対して、ずっと批判の気持ちが強いまま大人になりました。
「○○してもらえなかった」とか、「○○してもらいたかった」という「足りない」感覚が身体中に残り、母への非難ばかりが頭をよぎります。
その「してもらえなかった」ことへの恨み辛み、
何より、
深く哀しい、淋しい気持ちが消えることはなく、
長らく、
その哀しみを癒やすことが、わたしにはとても必要でした。
そして、
その癒やしは果てしなく長い道のりで、なかなかスッキリしないのですが、
最近、なにかが、少し変わり始めました。
まずは、自分を許してみた
母へのマイナス感情を癒やす道のりの、まず最初の一歩は、
わたしがわたし自身を癒やし、許すことだったように感じます。
子育てをするなかで、仕事をするなかで、日常のあらゆるシーンで、
「物足りない!」「もっとしっかりやらなきゃ!」「なんでできないの??」、
そんな気持ちが、自分に向かったとき、
それが、「精一杯のわたし」なのだから、もう充分だよ、
と、自分を許したら、とても楽になりました。
「これが、わたし!」なのだから、「わたし以上」にならなくていいし、
その必要もない、
生まれたあの最初の瞬間から、
誰とも違う「これが、わたし!」と思えたら、
自分が、愛おしくなりました。
「自分を生きる」ことが心地よくなりました。
(とはいえ、まだ、「完璧」という幻に支配され、自分に優しくしたり大切にできないことも多いですが、、、💦)
ところが、
自分のことは少しは許せるようになったのに、それなのに、そこからが険しい でこぼこ道。
母への批判や非難が湧き出ることを押さえられない日々が続きます。
娘からは、
「ママは、もう何年も延々と、おばあちゃんの愚痴を言い続けているよ、もう聞きたくない」と辟易されるほど。
自分の ” 不完全さ ” を許せたのに、
母に対する恨み辛み、哀しみが支配したわたしの心は思う以上に頑なで、
特に、
わたしが子育てをするようになり、押し込めてやり過ごしてきた「心の傷」が顕在化して暴れ、
なかなか母の ” 不完全さ ” を許すことを、自分に許せない。
許せない ” 母の不完全さ ”
わたしが子どものころからずっと感じていて、いまも、わたしの目に映る母は、
元気で明るく、非常に社交的、華やかで中心的存在、ガッツ&バイタリティ溢れるリーダータイプ、
一方で、
利己主義者で、感情の起伏が激しい劇場型、逆境には非常に弱く、課題と対峙できない人。
小学校の高学年にもなると、わたしは、すでに、母への信頼がないことを自覚していました。
思春期以降は、
子どものありのままを受け入れることもせずに、「表面だけ」を繕う母の態度を嫌悪していましたし、
世間や周囲に、” いい顔を見せる ” ため、そして、「母自身」を守るために、平気で嘘をつく姿にイライラすることも多くなっていました。
いまも、ことあるごとに、母に対して、そう感じてしまいます。
☆
母を象徴する、こんな出来事がありました。
わたしがまだ幼児のころ、母の仕事や用事の邪魔になることがあると、
母は、わたしを、人の出入りの全くない部屋の、真っ暗な押し入れのなかに閉じ込めました。
重なり合う布団と硬い木板に挟まれた闇の隙間で、開かない引き戸をただ見つめ、身体を小さく丸めたまま微動だにできない幼いわたしを、
母は、忘れることがよくありました。
当時、父が経営する会社と自宅は同じ敷地内にあり、会社の従業員さんたちも家族同然のように付き合っていたのですが、
母が仕事に熱中するあまり、わたしの存在を忘れる、そんなときは、
数時間後か、半日後か、丸1日経たあとだったのか、
母その人ではなく、
母から命じられたのでしょう、若い女子社員のひとりが、
わたしを暗闇から助け出し、
「ママは、あなたを押し入れに入れっぱなしのこと、忘れちゃったんだって」
と、
同情、憐れみ、あるいは、母との共犯のような口調で言い、
わたしは感情のない空っぽな心で聞いているのでした。
最近、85歳の母にそのことを言うと、
「だって、わたしも子どものころ押し入れに閉じ込められていたから同じことをしただけ。やっぱり、虐待は繰り返すんだねえ」
と、どこか他人事のように言いました。
「自分のしたことは虐待だ」という認識を母が持っていることに驚き(実は、わたし自身には「虐待」という感覚がなかった)ましたが、
幼子を押し入れに閉じ込めたり、入れっぱなしで忘れたことは、家の事情や当時の状況を鑑みて百歩譲って仕方ないとも感じ、また、過ちは誰にでもあるから仕方ないと納得しても、
わたしが残念に感じ、同時に、母らしいな、と感じることは、
虐待だと認識する機会を得たにもかかわらず、
疑いもなく繰り返したことへの「罪の意識」「後悔」も持たず、子に与えた悪影響も考えず、「謝罪」もない開き直り。
さらに、なにより、母を象徴することは、
養育を担う大人として、母自身が「押し入れから助け出す」という行為を通じ、子に「愛を伝える」「安心感を与える」課程を作らなかったこと、
そして、
その、「子育てで一番大切なこと」の「欠落」にさえ気づいていないことです。
母の言葉を聞いて、
「ああ、これぞ、お母さんだ!」と、感心するような、あきれ果てるような、複雑な気持ちで、二の句が継げませんでした。
あるいは、
わたしが2歳のとき、交通事故に遭い(わたし自身には、事故直前までの記憶しかありません)、九死に一生を得たのですが、
最近、振り返って、母は言いました。
「だって、誰かがあなたのことを世話していると思ったから」
当時のわが家は、祖母や叔母、従業員らが混ぜこぜの大所帯であり、確かに、家事・育児は祖母に丸投げしている母でしたが、
この言葉に、
ああ、やっぱり、産みっぱなしで、「子に心があること」が分からない人だ~💦
「命を育てる責任感」の欠如に、呆れるやら、母らしいな、と感じるやら。。。
(そんな母の子だったわたしも、「子育てで最も大切なこと」「命を守るということ」になかなか気づくことができませんでした。が、反抗期の子どもと向き合い格闘するなかで、母から引き継ぐ「負の連鎖」を断ち、子に何を与え、子の命をどう守るか、学ぶことができました)
母は、「子の心」に寄り添うことが苦手で、心を持つ「命」を育て、「命」に向き合う ” 覚悟 ” を得る機会を放棄したまま、おばあちゃんになってしまった人。
ですが、もう年老いた母に、わたしは何が言えるでしょうか。
母に対しては、すべて、こんな感じで、そのことが、悔しくて、哀しい。
母の歴史をひもといて、母に寄り添ってみたら、、、
母に対するマイナス感情を言葉にしたら、こんな風に、止めどなく出てきます。
こんな母から、わたしは、
「愛されている」という「安心感」や
「生きる上での大切な ” 心のよりどころ ” 」をもらっていないと感じてきたし、
(自分が子育てをするようになって、強く感じるようになった💧)
子どもに「安心感を与えられない母親」を母に持ってしまったアンラッキーを、いまも引きずっています。
けれど、
母について思考を巡らせ、セラピーを受けたり、心理学などを学ぶうちに、
あるとき、ふいに、
そっか!
と、納得した瞬間がありました。
「母が、こんな子育てしかできなかったのは、
母自身の心が傷ついていたから」
と。
☆
母は、名家に生まれ、封建的な家父長制を象徴する実業家の父親と、いまでも「あの方は本当に佳い方でした」と周囲から評される、底抜けに明るく穏やかで優しい母親のもと、育ちました。
ところが、20代を迎えた頃、大好きで大好きでたまらない優しい母親を、突然、心臓発作で亡くしました。
その大きな喪失体験は、
母に、「愛する」「向き合う」ことに、「恐怖」を植え付けてしまった。
「心のよりどころ」であった母親を突然失った哀しみを癒やすことなく、
たった2、3年後に、わたしを出産。
子育てに大きな影を落としたことは間違いない。
「愛すること」に怯えたまま、
子を持ち、育てることは、どんなに難しかったことだろう。
「愛する人を失う」、その苦しさを避けるために、
「愛さない」「寄り添わない」ことを無意識に選び取ってしまった母。
わたしが物心つくころには、
「わたしのお母さんは、大好きなお母さんを亡くして、ずっと悲しい」、
だから、
「いつも優しかったお母さんを思い出して泣いている」のが当たり前でした。
わたしたち子らを寝かしつけるとき、読み聞かせをしていても、最後は、自身の母親を思い出して泣き出すことが毎晩のようにありました。
80歳を過ぎた今でさえ、母は、亡き母親を追い求めては、涙を止めることはできません。
こんなエピソードもあります。
母の、年の離れた妹(私の叔母)は、動物大好きで、保護猫・保護犬の活動さえしていたのに、わたしの母が動物を飼ったり愛おしんでいる姿を見たことが全くなく、逆に冷たい態度であることが不思議でした。
あるとき、母はポツリと言いました。
「母さんが亡くなる前に、かわいがっていた猫が突然居なくなり、母さんは、必死で探し回ってそれはそれは悲しんでいた。。。。あの哀しみのせいで、母さんは死んだ。だから、わたしは動物を絶対に飼わない、可愛がらないと決めた」と。
また別の日には、
「わたしの結婚が決まって、それが寂しくて寂しくて、母さんは死んだ」とも言っていたので、
どれも、きっと母の哀しみゆえの妄想なのですが、母の心は、そう感じている。
こんなエピソードは、枚挙に暇がない。
「わたしが望んだことではなかった」けれど、、、
母の心に寄り添ってみたら、
わたしと同じように、「心に傷を抱えた」ひとりの小さな人間としての母を感じて、
そうか、あれが、母の精一杯かもしれない、
「わたしが望んだことではなかった」けれど、
母は、「母のできることの精一杯」をした、
と、ストンを心に落ちてきたのです。
そうしたら、
もうそれだけでいいよ、ありがとう!
そんな、気持ちが湧き上がってきました。
わたしが、わたしを幸せにする! わたしのなかに「安心感」を作る
母とわたしを巡る宇宙の見え方
わたしたちは、そもそもオールマイティではなく、
わたしと同じように、だれもが、何か足りず、不完全で、完璧ではないこと、
わたしと同じように、だれもが、自分でさえ気づかずに、心に傷を抱えていること、
この真実を、
この当たり前のことを、
他者を思うときも、自分を思うときも、まずは、しっかり心にとどめるようになったら、
見える世界は少し変わりました。
わたしから母へのベクトル(わたし→母)を、母からわたしへのベクトル(母→わたし)に移してみると、
「できることを精いっぱいやっている」母を感じることができました。
わたしから母を見たら、
もっとコレができたでしょう!、なんでアレができなかったの💢という、
わたしから母への感情だけがみえ、いまもごく簡単に、母への怒りや文句は湧き上がるのですが、
母からわたしを見たら、
「自分が考え得るすべてを、この子のために、やった!」
という思いが見えます。
そこには、ただ、愛情があった
さらに、最近、
たまたま、子育てに対する「母の思い」を聞く機会に恵まれたのですが、
母は、「子どもが望んだような子育てはできなかった」という思いを、ずっと抱えていることを知りました。
母が「子どもの気持ち」を想像できていたことに、驚きと共に、どこかホッとするような温かな感情が湧き上がりました。
つい、母ができなかったことや、母がしなかったことにばかり目が行き、
それが恨みや哀しみにつながってしまうのですが、
わたしから母をみるときの、見え方の角度も変えて、
母ができたこと、わたしのためにしたこと、
さらに、
子どもの望むようにはできなかったことへの母の思いに目を向けると、
そこには、ただ、愛情がありました。
こんな風に、
母とわたしを巡る宇宙を、小さくしたり大きくしたり、縦にしたり横にしたり、広げたり縮めたりしながら眺めていたら、
わたしが求めることとは全く違うけれど、
わたしから見たら、全く足りなくて、全然ダメダメな母だけど、
「あれが、精一杯の母だった」
と、感じることができた。
そうしたら、
心が優しくなって、まなざしが柔らかくなって、笑顔が増えました。
感謝の気持ちがわいてきました。愛を感じられました。
わたしが笑えば、母も笑っていること、
その笑顔だけで、
わたしに「安心感」をもたらして、「わたしを幸せにする」ことを知りました。
わたしは、ただ、幸せを感じて生きたい
母に対する、わたしの ”本音” を知る
ああ、わたしは、ただ、
母に、わたしと一緒に居て笑っていてほしかった。
わたしは、ただ、
母から「愛されている」「大事にされている」と感じたかった、それだけ。
「母の気持ち」は「母しか分からない」から、母がわたしをどう思っているか、” 真実 ” は判り得ないけれど、
わたしは、懲りずに、
いまも、
「母からの愛情」を確認して、「安心」したいんだなぁ。
いろんな研究者が指摘しているように、
幼児期に、「主な養育者」(研究者いわく、母親である必要はないが、1人か2人の主に養育を担う大人を指す。わたしの場合は、誰だったのか??)から愛情を受けられず、
その結果、「心のよりどころ」「安全地帯」を確立し損ねた(と感じている)わたしは、
大人になってなお、心に埋まらない溝を抱えて、「愛」を求めてしまっている。
母という存在に対しては、ほかの人たちとは異なる「愛」を求めてしまうから、ややこしい。
母からの愛情や安心感を得ることこそが、
わたしが求める「幸せ」だったんだね
だから、母の言動に一喜一憂して、
母の言動に振り回されて、イライラしたり哀しくなったり
でも、
与えられなかった「愛」や「安心感」に執着していたら、苦しいばかりで前に進めない。
わたしは、もう、母に支配されず、自分の道を自由に生きたい!
「母に愛される」という ” 呪縛 ” からの解放
「母から愛される」という ” 呪縛 ” から、わたしを解放してやりたい!
自由に、幸せを感じたい!
” 呪縛 ” に執着しているわたしを解放して、
「わたしを、わたしが幸せにする」ために、
その1つの知恵として、
母とわたしを巡る宇宙の見え方をいろいろ変化させて、
わたしと同じように、母も、何か足りず、不完全で、完璧ではない、 わたしと同じように、母も、自分でさえ気づかずに、心に傷を抱えている
こう自分に言い聞かせ、
ああ、あれが「精いっぱいの母」だった!
お母さんなりに、お母さんのやり方で精一杯やった!
もうそれだけでいいよ、
そんな風に「感じたい」のかも知れません。
家族にまつわる " 呪縛 ”について 「家族、親子、兄弟は、仲良しであるべき」という " 思い込み ”が、自分を苦しめているならば、そんな考えを、ポイッと捨ててしまっていいのだと思っています。 「家族」「母・子」だからといって、「好き」でいなくてもOK、「嫌い」でOK!だと思っています。 でも、正直、「家族は仲良し」という " 呪縛 " に絡め取られているわたしは、 母の愛を求め、確実な愛を期待して、 懲りずに、 母との幸せな思い出の瞬間を探して過去をさまよい、 「お母さんが一緒に居ると安心する」「お母さんはわたしを分かってくれている」という「感覚」を確かに味わったこと、 「愛」や「幸せ」もたくさんあった!とも思えること、 母に対して、母なりにやってくれたと「感謝」もしていることもいちいち確認し、 なにより、 「母を大好きでいたい!!」と、心が叫んでいます。 ああ、複雑。 こんなわたしが、わたしにできることは、 母がどう思っているかは母にしか判らないけれど、 わたしの心の声を、わたしは判っているから、 どんなにゴチャゴチャの心も無視せずに、大切にしたい。 そう感じるわたしを、大好きでいたい。「イヤだ」という気持ちを大切にしたい/「居場所」=「安心」を知るために誰がなんと言おうと、「イヤだ!」と感じるならば、それは「 しなくていい我慢 」。自分の心の声を聴き、「しなくていい我慢」を「しない勇気」を持てば「自分らしさ」を取り戻せる!毎日が「好き」でいっぱいになる(^^)ネガティブな感情も大切な心 / そう感じても大丈夫! そう感じるわたしも大好き!どんな感情も許すこと。それが、「ありのままの自分」を肯定する第一歩。「自分の味方」でいよう。「マイナス感情」を安全に解放する方法もお福わけ。助けられています。
わたしのなかに 「心のよりどころ」を築く
「愛」という「心のよりどころ」を、
「母」や「だれか」に求めずに、
「自分の中に築く」ことが、わたしには必要だと思っています。
いまは、その旅路の途中。
「心のよりどころ」とは、「安心感」。
「心が喜ぶ」ことに手を伸ばすことが、
自分の中に、
「安心感」や「自分の居場所」を築く第一歩だと感じています
わたしの外側に「愛」を求めず、
わたしの中に、「愛」の種をまいて育てたい!
そして、親から子への「負の連鎖」を断ち切りたい!
大切なのは、マイナス感情に振り回されて、自分自身を見失わないこと!
わたしと同じように、だれもが、何か足りず、不完全で、完璧ではないこと、
わたしと同じように、だれもが、自分でさえ気づかずに、心に傷を抱えていること、
そんな風に心に思っても、
こと、「母」との関係に対しては、納得するまでに相当な長い旅路があります。
母への反抗期も、つい最近(アラ還になって)終わったくらい、直接的に、批判、非難、反乱を起こしていましたし、
正直、今この時点で、スッキリした心で、まるまる母親を許せているかというと嘘になります。
人は不完全で、傷も抱えている、
でも、
だからといって、他者をないがしろにしたり、傷つけたままでいいわけがない💢、
幸せに向けて、佳き方向に人生を変える努力をしろ!!
そんな風に、
60年間持ち続けた、怒り、恨み辛みは、凪いだと胸をなで下ろしたとたんに、打ち返す波のごとく、
いまだ何度も戻ってきては、消え去ることはありません。
でも、前述したように、
怒りや哀しみを吐き出し、もがき苦しんだ日々を経るなかで、
もう、このマイナス感情を、少しづつ手放して、
わたしを苦しめている ” 呪縛 ” からわたしを解放してもいいんだ、と思えたのかも知れません。
だから、気の済むまで、
自分が癒やされたと納得するまで、
とことん、怒ったり、悲しんでいいと思っています。
存分に、マイナス感情を味わいきることも とても大事!
心理の専門家の方から、そう教わりました
大事なことは、ただ1点!
そのマイナス感情に支配されて、振り回されて、大切な自分自身を見失わないこと!!
マイナス感情に支配されて、振り回されたままだと、
結局、自分の大切な心が疲弊して、自分が苦しくなる、自分が損しちゃうから。
周りにいる「他者」をありのまま受け入れることは、「他者」のためではなく、
「わたし」自身のため。
「わたしの幸せ」のため!
日々、イライラしたり、モヤモヤしたり、落ち込んだり、
苦しい&不快な気持ちで頭がいっぱいになったとき、
専門家に教えてもらった「ツボをたたいて感情を解放する方法」や、
「認知心理学」の知識が、わたしを助けてくれます。
以下の記事↓↓で、詳しくお福わけします(^_^)/
あとがき
母に対するいろんなマイナス感情と同じように、
強弱こそあれ、
夫や娘、友人や仕事仲間、隣近所、お店の店員さんやお医者さんや、通りすがりの人、過去の人々、、
わたしの周りのすべてのさまざまな人たちに対する、面倒くさい、色んなマイナス感情を持て余すことがあります。
日常的に、他者へのマイナス感情に支配されること、あるよね
そんなときに、
不完全で、ダメなところが在る「わたし」と同じように、
不完全で、ダメなところが在る「あのひと」なんだ、
わたしが、心に傷を抱えているように、
だれもが、心に傷を抱えている、
と、
思うようにしています。
そうすると、確かに、怒りや哀しみが、少し薄れるような気もします。
でも、うーむ、やっぱり、そんな簡単には問屋が卸さない。
頭が理解しても、心はロボットでないし、不完全なわたしなので、すぐに、沸き起こった怒りや悲しみを消し去ることは全然できないし、
イヤなことをされて怒ることや悲しむ身持ちは、
ごく当然で、正しい心の有り様だから、
それを無理やりに押さえることや消し去ることはしなくていいと思っています。
存分に、マイナス感情を味わいきることも とても大事!
心の傷を癒やすために通ったセラピーで、よく言われました、
「あなたの感情」を置いてきぼりにしないで、と。
大事なことは、
そのマイナス感情に支配されて、振り回されて、大切な自分自身を見失わないこと!!
マイナス感情に支配され振り回されると、
結局は、
自分の大切な心が疲弊して、自分が苦しくなる、自分が損しちゃう💦
わたしのために、わたしが幸せでいるために、
「そのままの他者」を許し受け入れる。
だって、
恨みや怒り、哀しみ、非難や批判を抱えながらも、
喜びや慈しみ、愛しさもたくさん抱える心でいたいから。
その方が、わたしの幸せを生きられるから。
そして、
他者の言動に振り回されず、「他者」の態度次第で「自分の幸せ」が決まるのではないことを心に留めたい。
わたしの場合は、
「母の言動」によって「わたしの幸せ」は、決まらない。左右されない!
わたしを悲しませる言動を取る人は、それがたとえ母であっても家族であっても、
わたしの心のなかに入れなくていい!
そう思っても、
他者ならば実践できても、
こと、「母」や「家族」に対しては、スッキリとしないことが多い💦
やっぱり、「愛」を求めちゃうんですよね。
でも、
わたしの幸せは、わたしが育む!わたしが決める!
わたしの外側に「愛」を求めず、
わたしの中に、「愛」の種をまいて育てたい!!
こんな風に、いま、強く思っています。
どんな心もわたしの大切な心だから、抱えたままで、
ただ、
「心」に「振り回されず」、「他者の態度」にも「惑わされず」に、
わたしの「幸せ」は、わたしが決めて、
愉快に生きようね(^_^)/
自分を大切にし、心身を楽にしよう。
わたしは、以下の記事でお福わけしたように、
自分で自分を癒やしています(^_^)/
親との関係、子との関係を考えたエッセイは、こちら↓
自分を癒す方法は、当サイト「お福わけサロン」の「セルフケア&セラピー」をご覧ください。
わたしが専門家から習い、実践し、心身を助けられている、自分で手軽にできる東洋医学やセラピーの方法や効果をお福わけします(^^)
更年期やアラ還期は心身の変わり目。専門家が教えてくれた自分で手軽にできる心身の健康や癒しのヒントをお福わけ 。日々、助けられています(^^)