「頭」では分かっていても、「心」が「もっとこうだったら」「ああだったら」と、不満や不安、怒りや哀しみがあふれ出てくることは、ありませんか。
そんなマイナス感情に包まれて身動きが取れなくなったとき、
亡き祖母の言葉を思い出しました。それは、日々を愉快に過ごすための大きなヒントでした。
当サイト「お福わけサロン」の [愉快に生きる]シリーズでは、 わたしらしく愉快に生きたい!と願う元新聞記者アラ還母が、人生や子育て、仕事、日常生活のなかで、困ったり迷ったりしたときに助けられた「愉しく生きる知恵」や「癒やされた考え方」や方法を、エッセイとともにお福わけします。
以下のエッセイに続いて、わたしが日々助けられている、自分でできる「ネガティブな感情に向き合う方法」もご紹介しています。
自分は自分の味方でいたい(^^)
第10回エッセイ 心配しなくていい。大丈夫!
太っていると恥ずかしいの⁈
「たんぽぽさんは体育館に集まってください!」
毎日、給食の準備時間になると、高らかに校内放送がありました。
もう50年も前のこと、わたしが小学校の高学年くらいか、学校をあげて「肥満児対策」に乗り出していました。
”飽食の時代” とも言われた昭和後期。
「こどもの肥満児問題」が顕在化し始めた当時、給食の準備時間を利用して15分間くらいだったか、肥満児だけを体育館に集め、「肥満児体操」と呼ばれる痩せるための体操の時間が設けられていました。
”太った子を傷つけない配慮” からか、その体操は「たんぽぽ体操」、肥満児は「たんぽぽさん」と呼ばれていました。
“太っている子” として育ってきたわたしは、大方の予想通り「たんぽぽさん」に認定され、クラスでわたしを含めた3人が、給食の準備は免除され、なにかの代表選手のように体育館へ送り出されるのでした。(㊟ 当時の肥満の算出方法は現在と同じかどうか分かりません。わたしは病的な肥満ではなく、身長に対して数㎏、標準体重を上回っていたと記憶しています)
体育館では、4人1組になり、決まった運動をしました。わたしは運動が得意な方で、体操教室に通っていたこともあり、難しいと思われる体操も難なくこなすので、まるでヒーロー扱い。
運動自体も楽しかったし、準備もせずにおいしい給食が食べられるなんて、なんという特権だ!というプラスの思いの方が、恥ずかしいといったようなマイナスな思いを上回っていました。
ところが、「自分は肥満児で、特別に痩せる運動をしている(していた)」という話をすると、
「え⁈ それは、キツいね。イヤだったでしょう?」と同情してくれる方々もたくさんいました。
たしかに、クラスメートたちから、日々、太っていることをからかわれるばかりか、学校をあげてわざわざ痩せさせようとするのだから、「そっかぁ、太っていたらダメなのかぁ⁈」と、なんとなく感じた気もしますが、
でも、やっぱり、
「たんぽぽさん」であることを苦にしたり、恥ずかしいと思ったことはなかったと記憶していますし、なにより、「痩せなくては!」と思った記憶は、一切ありません。
教科の中でも体育が一番好き!で、周りからも、「太っているのに、速い!」「脂肪の塊なのに、上手い!」などといわれるので、
「あらぁ、太っていることで割り増しで褒められちゃった!」と単純に喜んでいたほど💦
しかも、当時、大人気だったお相撲さんの名とわたしの名を掛け合わせた「あだ名」をつけられ、クラスの男子や担任も、その「あだ名」でわたしを呼んでいましたが、
「なるほど! 太っているわたしにぴったりで、上手な名付けだ。ナイス、アイデア!」と心から感心し、そのあだ名を気に入って、大人になっても、しばらく、自分の名刺代わりに使っていました。
いま思うと、あまりの脳天気さに、我ながらビックリするエピソードも多いのだけれど、
あの当時、傷つかずに、ノホホンと居られたのは、なぜだったのかしら?
運動が得意だったことは、肥満児である自分に劣等感や恥ずかしさを持たずに済んだ理由かともおもいますが、
それだけじゃないな、と、最近、思い当たったことがあります。
祖母が言ってくれた「なんの心配もない」
肥満児対策は、家庭でも徹底するように学校から通達があったはずですが、両親も料理担当だった祖母も、特に変わることはありませんでした。
時代的な要因もあるのですが、「たくさん食べられることは豊かなこと。太っていることは幸せなこと」と信じていて、
わたしにダイエットをさせたり、なにかを制限したり課したりすることもありませんでした。
(㊟ 当時のわたしは病的な肥満ではありません)
共働きの両親に代わり、料理や育児を担っていた祖母は、特に、
「いずれ ”むすめ” になれば自然と痩せるんだから、なんの心配もない」と、ことあるごとに言っていたように思い出します。
明治生まれの祖母の「むすめ」という言葉は、「としごろ」といったような意味があったのだと思います。
祖母は、どんなときも、ただ、
「いずれ痩せるんだから、心配ない」と言って、相変わらず、おいしい料理や新しい料理をたくさん作って、わたしが「おいしい、おいしい」と食べれば、嬉しそうにしていました。
「肯定」の言葉が、安心と希望を生む
長じて、自立したわたしが帰省するたびに、祖母から「久しぶりだね。何が食べたい?」と聞かれましたが、
わたしはいつも、
「おばあちゃんの作る料理ならば、なんだっていいよ」と応えるのでした。
おばあちゃんの料理は全部おいしいから。
全部、わたしを笑顔にして、幸せな気持ちにするから。
20歳過ぎても、就職しても、肥満というほどではありませんでしたが、「ぽっちゃり」と言われ続けたわたしは、「太い足や三段腹をうまく隠さなくちゃ」と思ったりすることもあって、
たまに、
「おばあちゃん、いつになったら、わたしは、”むすめ” になるんだろうか~⁈」
と、おどけたように祖母に質問しましたが、
祖母はただ、ニコニコしていたように思い出します。
「いま、もう十分、美しいよ」と言っているかのように。
だから、わたしは「そっか、そうだよね」と安心して、また、歩き出し、
周囲から「太っている」「足が太い」と囁かれても、ダメージはそれほど受けずに、
「そんなことを言って、実は、わたしのことを好きなくせに~」などと、さらにポジティブは加速して、ノンキに構え、ダイエットなんて考えることもなく、おいしいモノをお腹いっぱい食べていました。
♡
あの祖母の言葉は、当時は気づかなかったけれど、
太っていることで、わたしがわたしを否定したり、自信をなくしたりしなくて済んだ魔法の言葉でした。
クラスメートや通りすがりの人たちから、太っていることをからかわれて、どんなにマイナスに言われても、
「安心していいよ、先々には期待しかない、
だから、いまのわたしでOKだよ」と、
わたしをまるごと肯定していました。
あれは、祖母の優しい暗示だったのでしょうか。
意識的だったか、無意識だったか、祖母の真意は、いまとなっては知ることはかないませんが、
祖母から肯定されて、
わたしには、安心と希望しかなかった、それだけは真実です。
「いまの自分」を肯定できれば、「さき」のことも光が差して感じられる
「肯定」の力は最強で、
「わたしでいい、わたし上々、わたしは悪くないじゃん、いまのわたし、最高!」、
そんな風に「いま」思えていれば、心は満たされます。
満たされた心は、ポジティブな思考を生んでいく。
わたしのままでOKで、なんの問題もない。
祖母の言葉を思い出すと、そんなふうに、「いまの自分」を肯定してもらって、
「そのときのわたしのこころ」は満たされていたから、
「いま」も「さき」のことも安心していられた、希望を感じることができたのかな。
いま、肥満児だった子ども時代や青春時代を振り返っても、明るく自信に満ちた思い出が多い。
肯定は、自信を生み、安心して歩いて行ける。
勝利を収めたスポーツ選手からよく、「自分を信じることができました」と聞くことがあります。
できる!と思えること、自分を肯定して信頼できることで、
チャレンジできたり、難局を克服できる! (^^)
「いまの自分」を肯定できれば、「いま」を思い切り生きることができて、
「さき」のことも光が差して感じられる
祖母から「肯定されたこと」、
それが、どんなに周りから太っていることを揶揄されたり、馬鹿にされたり、見下されたりしても、
劣等感や恥ずかしさを持たずに、
「わたしがわたしをまるごと受け入れて肯定」し、希望を持てた大きな理由だった
と、最近になって気づいたのです。
「ありがとう、おばあちゃん ! 」
マイナスの感情だけが消えない理由は?
ネガティブの自動運転が止まらない~
逆に、
「いまの自分」に対して不安や不満でいっぱいなときは、必然的に脳もネガティブな思考をするから、「さき」への予想もネガティブになってしまうのは当然のこと。
しかも、その悪い予想は、間違っているのだそうですよ。
詳しくはこちら↓
「いまの自分」を肯定したら、愉快な「未来」がみえそうだわ
うん! でもさ、だったら、「いまの自分」を肯定しちゃえばいいんだけれど、それが難しいんだよね
頭では分かっているのに、わたしは、懲りずに、思考のスタートがネガティブな考えになっているので、
自動的に、
「もっとこうだったら」「ああだったら」と、「いまの自分」を否定し、不満や不安、怒りや哀しみがあふれ出てきてしまいます。
こうなると、もう、必然的に、「将来」を悲観し、「過去」を後悔し始める。
マイナス感情に包まれて身動きが取れなくしまう😢
これぞ、完璧な、負の連鎖のオートマティック。
ネガティブの自動運転が止まらない~💦
感情を解決しようとしない どんな感情も大切に
「否定している自分」も肯定しよう
ネガティブの自動運転が止まらないとき、
自分や自分の状況を否定し、関係しているヒトや関係している状況すべてを否定したくなる。ここまでの人生(過去)を後悔し、これからの人生(将来)を悲観してしまう。
そんなときはどうしていますか?
わたしが心理学を学んだり、様々なセラピーを受けたりして学んだことは、
「否定している自分」も肯定しちゃおう、と言うことでした。 「うん、分かる! そりゃあ、自分を否定したくなるよね、周りを否定したくなるよ。 否定してもいいんだよ」 と。
否定する自分も肯定する、
なんだかややこしい、、
どんな自分にたいしても、せめて自分くらいは「うん、わかる!」と共感しちゃおう、
という感じかな。
大丈夫と言ってくれる祖母が居なくても、自分で自分に「大丈夫」と言ってあげたいのさ
とはいえ、
「わたしって、どうしてこんなにダメなのかな」と思ったり、「わたしがダメだったから、こうなった」などと自分を責め始めたら、自分を肯定するのは至難の業。
そんな場合、あるセラピストさんから教わった方法は、
「わたしって、わたしのことをダメって思いがちだよなぁ」 「わたしって、すぐに、自分のせいだと考えがちだな」 と、意識的に客観的に考えてみます。 「ダメなのは、どうしてか?」や「なぜ、罪悪感を持つのか」「なぜ自分を肯定できないのか」という原因や理由は考えない。 そんなことは横に置いておいて、対処しない。 気持ちを頭で解決しようとしない。 ただ、「○○の傾向があるなあ」と、思ってみます。
いきなり、「肯定」はハードルが高いこともあるのだけれど、こんなふうに、自分をやさしく観察して、
ただ、「自分を責めちゃう傾向があるな」とか「すぐに怒っちゃう傾向があるわ」と考えていると、
いろんな思いがわき上がっています。
そんなときは、
「そうだよね、苦しいよね、悲しいよね、泣きたいよね。すごく、わかるよ」 「逆境だよね。本当によく頑張っているよ、こんなにキツいのに、また朝を迎えて、すごいよ、わたし」 と、自分をまるごと褒めちゃう。 頭の中で、自分を抱きしめちゃう。
感情を抑えて、心を置いてきぼりにしてしまった過去
かつて、新聞記者として働き、子育てをして、海外生活でもまれたりするなかで、いつしか、わたしは、合理的に無駄なく生きることが目指すべき生き方だと考えるようになっていました。
足りないと思うこと、不満な点、上手くいかないモノゴトがあれば、きっちり対峙して、対応策を調べあげ、対処し、努力して、解決に結びつけることがわたしのスタイルでした。
グジグジ悩むなんて時間の無駄。生産性なし。マイナス感情に浸っている時間があったら行動しろ!と自分を鼓舞し、
そうやって難局や逆境を乗り越えてきた自負もあります。
が、心理学を学んだり、様々なセラピーを受けたりして、いま、アラ還になり、しみじみ思うことは、
わたしはいつでも必死で、ここまでなんとかたどり着いたけれど、
「ああ、心を置いてきぼりにしちゃったなぁ、、。その時々に感じていた、怒りやさびしさや哀しみは無視したり、見ないふりしたり、押さえ込んできたから、
今も時折顔を見せて、ずっと消えずに残っているなあ」
ということです。
日常生活のなかで、なにが想起のキッカケになるのか、ふいに、
あのとき、わたしが犠牲になった、わたしが我慢した、わたしだけが苦しんだ、、わたしが、、わたしだけが、、、
そんなふうに、イヤだった、悔しかった、寂しかった、苦しかった、孤独だった、、、
「マイナスの感情」が、急にあふれ出して、「いまのわたし」を支配して、暴れます。
どんな感情も感じきる
そんなとき、わたしを助けてくれるのが、
マイナスな感情が暴れ出したときに、安全にその感情を解放する方法です。
ツボをタッピングする、Emotional Freedom Technique(エモーショナル・フリーダム・テクニック EFT)とよばれるセラピーで、”心の傷”をいやしたくて巡り合い、以降、助けられています。
EFTのやり方等、詳しくは、こちらもご参照くださいね。
EFTは、身体の経路にある特定のツボを流れるように順番に指でトントンとたたきながら、その時々の感情を繰り返し感じて、身体にたまったエネルギー(気)を安全に解放していくものです。
どんなネガティブな感情もOKで、
最初に、
「いま わたしは ○○(ネガティブな感情)だけれども、
わたしは、わたしを愛し受け入れます」
という言葉を3回唱えてからツボのタッピングを始めます。
「めちゃくちゃムカついているけれども、わたしはわたしを愛し受け入れます」や「 イライラするけれども、わたしはわたしが大好き」と3回つぶやいてから、ツボをトントントン。
どんな感情の自分もOKで大丈夫、
安心していろんな思いを感じよう!
どんな自分も受け入れることからスタートだね
この自分を肯定する言葉がなんとなく引っかかったり、違和感があったり、居心地悪く感じて言いたくないときがあります。
そういうときは、言わずに、すぐに、ツボをトントンしながら感情を吐き出しています。
頑張らない! しっかりやろうとしない!
EFTでは、こころに閉まった感情を言葉にして思い切り吐き出すことが大切。
何を言っても、何を考えても、ドロドロ暗黒のこころでも、赤い炎のこころでも、何でもアリ、悪魔になってOK。それは、傷ついた心の声だから。助けを求める心の叫びだから。
そんなふうに、セラピストさんに何度も言われましたよ。
ネガティブな感情があっても大丈夫! 何を思ってもいい!
どんな感情もツボをトントンしながら感じきりましょう。
マイナスな思いやネガティブな感情も、わたしの大切なこころ。
いまのわたしの思い。
だから、見ないふりしたり、フタをしないで、
とことん、ネガティブを感じていいんですね
どんな感情も感じることを自分に許し、「そんな自分も大好き」と受け止める
それって、ありのままの自分を肯定する第一歩かも(^^)
心を優しく抱き止め、癒やす方法はこちらも参考にしてくださいね。 自分で自分をケアできます。
自分を受け入れ、自分を好きでいたら、見えてくる光
どんなときも、わたしの「心」を労ることを忘れずにしたい!
と、
いまは考えるようになりました。
心を置いてきぼりにせず、マイナスな感情を我慢しないでしっかり感じて、そんな自分を「うん、わかるよ」と受け止めて、
最終的には、「わたしよくやっている! 偉い!」とほめたい。
「こんなわたし、大好き」と言いたい。
加えて、
そもそも、「足りないと思うこと、不満な点、上手くいかないモノゴト」と感じていたことが、本当に、マイナスなことだったのか。
ふりかえれば、あのアンラッキーと思った出来事がなければ、このラッキーにも出合っていなかった、
ということも、実は多いとおもいませんか?
だったら、なおのこと、
祖母がしていたように、
「大丈夫」「問題ない」と、
いまの自分に言ってあげられたら、
愛する誰かに言ってあげられたら、
マイナスだと思ったことが実はプラスのことだと気づいたかも、
マイナスだと思ったことは、いくらでもプラスに変えられる、とも思えるのです。
真実は、時に隠れているから。
あとがき
否定したり、ダメだしする自分、失敗する自分、「でも、そんな自分も大切」「そんなわたしも大好き」と自分に囁いて、自分を抱きしめていると、なにかが変わるかも。
「肯定する」ということは、「好きでいる」ということ。
「好き」は、心が満たされて安心します(^^)
悩んでいたり、上手くいかなかったり、不満にかんじたり、足りないと感じるとき、
もちろん、解決するためにがむしゃらに対応することも、やっぱり、わたしは大切なことだと思っています。
でも、そのときでさえ、「辛い」「もうイヤ」「逃げたい」「さびしい」「助けて」、、そんな心の声をしっかり聴いて、
自分くらいは自分の本当の声を漏らさず受け止めて、
その感情を解決しようと思わずに、感じきって解放したり、
あるいは、
ただ、
「うん、そうだね、そう思っていてもいいんだよ。そう感じていても大丈夫だよ」
「そう感じるわたしのことも、わたしは大好き」
と、そっと自分を包んでいたい。
そして、わたしと同じように苦しんでいるだれかに、愛する人たちに、
「うん、そうだね、そう思っていてもいいんだよ。そう感じていても大丈夫だよ」
「そう感じるあなたのことも、わたしは大好き」
と、言いたいのです。
ネガティブな感情も、マイナスな気持ちも、全部、大切なわたしの心だから。
大切なあなたの心だから。
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生きていたら、取り返しのつくことばかりだから、大丈夫。
生きていたら、新しい明日が必ずくる。
「いま」は、苦しくて哀しくて心細くても、「いま」は、必ず過ぎていく。
心も身体も無理なく、愉しく(^^)