詩人 金子みすゞさんの『わたしと小鳥とすずと』の一節、「みんなちがって、みんないい」は、娘が言葉を理解するようになり、最初に、一緒にうたったフレーズでした。
「みんなちがって、みんないい」 、そういう生き方をしてほしいし、わたしも、そうありたいと願っています。
今回のエッセイは、子どものわたしが巡り会った、「みんなちがって、みんないい」 を体現した ”宇宙” について。
たくさんの「違う!」が、ありのまま、そこにあり、「 違う」から「分からない」、「分からない」から「知りたい」。そんな、シンプルで、自由で、心地いい生き方をしたい。
当「愉快に生きる」シリーズでは、 わたしらしく愉快に生きたい!と願う元新聞記者アラ還母が、人生や子育て、仕事、日常生活のなかで、困ったり迷ったりしたときに助けられた「愉しく生きる知恵」や「癒やされた考え方」や方法を、エッセイとともにお福わけします。
第6回エッセイ 小さくて大きかった ”宇宙”
しょせん、てんでんばらばら なのだ
子どもの頃、たまたま父が観ていたテレビの討論番組を、なんとはなしに見ていて、驚いたことがありました。
画面には、頭が良さそうなおじさんたちが何人か集まって、難しい言葉で何やら論争していたのですが、同じくらい物知りにみえるのに、みなそれぞれ違うことを主張していたからです。
きっと最後には「正しい答え」が出るんだろうと思って観ていましたが、結局、互いに譲らず、一致点なく、番組は終了。
子どものわたしは大混乱。
だって、大人は、みなだれもが「正しい考え」を知っていて、いや、100歩譲って、「頭の良い大人」は何が「正しい考え」かを分かっていて、しかも、その「考えはひとつ」で全員一致するものだと思っていたから。
へえ、そうなんだ ⁈
有識者や知識人と呼ばれるヒトも皆、てんでんばらばら、千差万別!
1+1が2になるように、パズルのピースがはまるように、爽快にピタッと全員一致することはないのか。
それから、毎週、なにを話しているかは全く分かっていなかったけれど、なぜか興味を引かれて、父と一緒にその番組を観るようになりました。
おじさんたちがそれぞれ違う意見を持っていること、反論する姿や、たまに共感して頷き合う様子、仲良しなのか嫌い合っているのか、よく分からないけれど、面白かった。
どんなに物知りのヒトでも、大人でも、ひとつの「正しい答え」なんて誰も分かっていなくて、
ひとりひとり、別々の考え方や意見や感情があって、
だから、ヒトは、わたしが思ってもみなかったことを言ったりやったりするんだな、
学校では先生の言うこと、家では親の言うことが正しいと言われてきたけれど、
なるほど、先生も親も、本当は「分かっていない」んだね。
反論したら、わがまま⁈
ちょうどそのころ、年代バラバラ20人くらいの集団で外食する際、「みんな、何が食べたい?」と聞かれたから、わたしは「オムライス」と答えたけれど、ほかのひとは特に何も言わず、『オムライス』に決まりかけたのですが、
だれか、たぶん、その集団のなかで力が強い誰かが、「オムライスでないモノ」を言うと、何人かはすぐに賛成し、何人かはさっきまで「オムライス」と言っていたのに翻意し、何人かは何も言いませんでした。
オムライス気分のわたしが異論を唱えると、
近くに居た年下の子に、「食べるものなんてなんだっていいじゃん、言い合うなんてバカバカしいから、黙って!」と、にらまれてしまいました。(空腹時はイライラするよね~)
自分の意見を、ただ口に出して言っただけなんだけどな💦💦
わたしも特にこだわりはなかったけれど、なんとなく、みんなが口々に食べたいものを言い合って、いくつか出た候補のなかから検討を重ねて選ぶのかなあと想像していたから、すっかり居心地の悪い気持ちになりました。
たかが食べ物の話に議論もへったくれもないし、確かにバカバカしくて面倒くさいのですが、
子どもの頃のわたしは、一事が万事、こんな感じだったように思います。
誰かが言ったモノに反論したり、違う意見を言っては、「わがまま」「自己中心的」とレッテルを貼られていました。
自分の考えや意見、希望を言ったらダメなのかな ⁈
わたし以外の人は、みな、意見や考えが一致しているの ⁈
そんなわたしだったから、「協調性がない」ことを絵に描いたように、それぞれの意見や考えを述べ合って、一致なんてしないままの、テレビの討論番組のおじさんたちの姿は、新鮮に見えたのかも知れません。
「違う」ことは、自由で 心地よい
昭和40年代、小学生の頃のわたしは、「わたし以外は、わたしではない」ことが面白くて、「わたし以外のヒト」のことが知りたくてたまらない時期がありました。
だから、仲良しはもちろん、学校で話したこともない子の家に遊びに行っては、家での様子やその子の家族、家の雰囲気、食べているもの、会話の仕方などを観察。
それぞれ、「違う」ことが興味深くて、たくさんの「違う!」を発見して、その新発見は、ものすごくワクワクして、なぜだか、「違う」ということに安心感がありました。
友人や知り合いの範囲では飽き足らなかったのか、商店街の片隅にある小さいプラモデル屋さんに、週3くらいで通いつめていた時期がありました。どういう経緯でそうしたのか忘れましたが、10歳前後のことです。
プラモデルには全く興味がなかったけれど、小学校や習い事の雰囲気とは全く違う、店主のおばちゃん&高校生くらいのお兄ちゃん親子、集うお客さんやお兄ちゃんの友人たちと仲良くなって、閉店まで彼らと過ごすのが生活の一部になっていました。
そこでは、年齢も仕事も立場も、話し方や服装や雰囲気も全く異なる人たちが自由にいろんなことを話していました。
その人らしい言い方で、その人らしい考えを言い合っていて、小突いたり、軽口を言ったり、怒ったり笑ったり、だれが何を言っても大丈夫で、
わたしも感じたままに言葉を発しても「わがまま」とは言われない、心が軽やかになる自由な空間でした。
ときどき、「○○ちゃん(わたしの名)、ちょっと店番していてちょうだい。そのうち、お兄ちゃんが帰ってくるから」と店主のおばちゃんに頼まれることも。
ドキドキしていると、「○○ちゃんの知っているお客さんしか来ないよ」と言われ、「それもそうだ」と安堵して、売れ残りのプラモデルに埋もれかけた、店の奥にあるレジ台の少し高い椅子に座って、店でひとり、過ごしました。
そんなときに、顔は知っているけれど、直接会話をしたことがないお客さんが来たりして、ポツリポツリと話すうちに、どんどんその人のことが知りたくなって、質問攻めにしたり。ああ、愉しかったな。
レジ台からは、通りを行き交うたくさんのヒトたちが見え、彼らは、入り口のガラスドアの形に切り取られた四角い舞台の登場人物たちのようで、それを観察するのも面白くて。
ひとりとして同じヒトがいない、でも同じ舞台上にいる。その空間を実感することが、当時のわたしは大好きでした。
「あの人以外は、あの人でない」し、「この人以外、この人でない」。
10人いたら、10通り、
てんでんばらばら、雑多な空間が、とても愉しかった。
ひとりひとり、「違う」ことは、ものすごく楽で、自由なことだと、この店が教えてくれました。
そもそも、ヒトは違うのだから、それぞれ違ったままで一緒にいていいこと、
わたしは、ただ、わたしでいればいい。誰にもならなくていいし、誰の考えにも合わせなくていいと。
そして、
わたしたちは、誰一人同じヒトはいなくて、「違う」から面白くて、謎に満ちていて、興味津々、知りたくなって、知ろうとしてワクワクする。その感覚は、とても心地よかった。
ずっとのちに、
このプラモデル屋さんは「宇宙堂」という店名だったと知り、
ああ、本当に、ココはわたしの宇宙だった!、小さい店だったけれど、大きな宇宙だった、
と、出会えた僥倖に感謝しました。
「違う」ことを大切にしたい
「分からない」から興味津々、ワクワクして知りたくなる
当時の自分を思い出すと、アラ還の自分より、本質が分かっていたのではないかと思うことがあります。
社会は、そもそも「違う」ヒト同士で成り立っているということ。
それぞれ「違う」こと、「違う」がたくさんあふれている世の中は、とても自由で居心地がいいこと。
子どものころは、「みんな違って みんないい」を、ごく当たり前に受け入れられていましたし、
「違う」ヒト同士 なんだから、自分以外のヒトが考えていること、心のなかの気持ちなんて分からなくて当たり前で、
「分からない」から、「わたし以外」のひとのことを、興味津々、とても知りたくなりました。
大人になって、そういう本質をすっかり忘れて、
そもそも比べることなどできない「違う」ヒト同士なのに、誰かと自分を比べて、嫉妬したり、落ち込んだり。
あるいは、
ヒトの気持ちを「分かるような」気になったり、あるいは、「分かってもらえない」と悲しくなったり、怒ったりすることもあります。
そんなとき、
宇宙堂で過ごした子ども時代のような心でいたいから、こんなふうに自分に言い聞かせます。
しょせん、「違う」ヒト同士、比べるなんてアホらしい。 わたしは、「誰か」のようにならなくていいし、「誰か」に合わせなくていい! 「誰とも違う自分」を愉しむぞ! そして、「自分」を愉しんでいる「あなた」のことも尊重する! 人の気持ちを、わたしは分からない。だって、わたしではないから。逆も真なり。 人は、わたしではないから、わたしのことを分からない。それでOK! そして、 「この人のこと、知りたい!」「分かりたい!」「一緒にいたい!」と思える人たちと出会えたらハッピー(^^)
あとがき
あるとき、「このモヤモヤ、結論が出ない居心地の悪さはなんだろう」と、お弁当売り場で固まってしまったことがありました。(また食べ物の話⁈)
外出ついでに、ランチのお弁当を娘の分も買おうとしていたときです。
自分の分は「わ、コレ美味しそう!」と即決したのですが、
さて、娘は好き嫌いも多いし、栄養も偏らないようにしたいし、昨日は何を食べたっけ、どうせなら家では作れないものがいいかしら、、、などと、わたしは考えすぎて選べず、固まってしまったのです。
ああ、お弁当ひとつ買えない💦
どんなに愛する娘でも、いま、食べたい!と娘が思っているお弁当をピタリと当てることは難解。
そりゃそうだ、本人でないもんな、分からなくて当然!
と、思ったら、
開き直れて、娘に電話して食べたいものを聞き出し、ようやく、美味しそうに陳列されたお弁当のなかから一つ、手に取ることができました。
親子、夫婦、家族、兄弟、親友、、どんな親しい関係でも、やっぱり、ヒトのことは「分からない」。
分からなくて当たり前。
「違う」から、他者のことは、「分からない」。
でも、
「分からない」から、ワクワクして、面白い。
わたしたちは、ひとりひとり、そもそも、「違う」のだから、それぞれ違ったままで、「分からない」ままでもOKで、ただそこに、一緒にいたい。
そういうシンプルな心持ちで、「違う」であふれた世の中を味わいたい。
「知りたい!」「仲良くしたい!」と思える、たくさんの「違う!」が、ありのまま、そこにある世の中でありますように。
アラ還母が実践しているリラックスの方法を「セルフケア&セラピー」シリーズで各種、お福わけしています。心も身体も無理なく、愉しく(^^)
ご自分に合った癒やしの方法が、きっと見つかります。
是非、お試しください!