選ぶ基準にしてきたものは、自分を幸せにした?/「世間」でなく「自分の感覚」を信じたい!

愉快に生きる

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進路を選ぶ時、何を基準にして選び、生きてきましたか?
そして、
選ぶ基準にしてきたものは、自分を幸せにしましたか?

今回は、
アラ還になったいま、何をどう選んで生きるのか、いま一度、考えてみたお話です。

アラ還母
アラ還母

自分の人生を、より愉快に生きるために!


コラム 愉快に生きる
 当シリーズでは、
わたしらしく愉快に生きたい!と願う元新聞記者アラ還母が、人生子育て、仕事、日常生活のなかで、困ったり迷ったりしたときに助けられた「愉しく生きる知恵」や「癒やされた考え方」や方法を、エッセイとともに綴ります。  

第13回 エッセイ 怖くなった “当たり前“ の会話

その1 そんな気持ちで大学生活を送っているの?

ある日、お気に入りの小さなオープンカフェでゆったりコーヒーを飲んでいたら、
3人連れの青年が隣の席に座りました。

着席するやいなや、3人は大きめの声で話し始めたので、聞くとはなしに聞こえてきたのですが、

どうやら、2人は東大を目指している浪人生、
残りの、少し年上に見える青年は、数回の浪人の末、東大に入った大学生で、浪人生2人に勉強を教えているらしい。

東大生は、息継ぎもしない早口で、ノートを広げた浪人生に向けて喋り続けます。

「オレみたいに、多浪で東大に入ったら、現役で入学したヤツらにバカにされるから覚悟しろよ。
これに耐えられるかが、オレたちの生きる術。耐えられなかったらお終い。生きていけない。
卒業しても官僚になっても同じ。オレたちは、ヤツらに、一生、見下されて過ごすんだから」

自虐ネタなのかホンネなのか、事実なのか妄想なのか、そんな話を、受験生に向かって延々とまくし立てているのです。

彼は、毎日、こんな気持ちで東大のキャンパスにいるの?
東大を目指す浪人生たちは、どんな思いで、先輩の言葉をきいているのか。。。。

アラ還母
アラ還母

 そこに居て、愉しいのかな?

一生、見下されて生きる」と感じてしまう場から離れてみたらいいのにな、
あなたが知らないだけで、世界は広いよ~

そんなことを心の中で呟いていました。

その2 どんな気持ちで大学を受けるの??

大学受験を控えた子を持つ知人数人とランチをしたとき、
自ずと、子どもたちの進路の話になりました。

ひとりの子は、ずっと好きなことがある子だったので、それを学べる大学に進むのかと聞いたら、

「一流の中学に入った時点で、めざす道は一流大学しかないんだよ」
「 ”好き” かどうかなんて言っている状況ではないのよ」と、諭すように言われ、
わたし以外の周りの母仲間も「この人、いまさら、何を聞いているのか」という呆れ顔。

さらに、
別の子の話になり、
「〇〇くんは、医学部をうける」と言うので、
「へぇ、彼はお医者さんを目指しているのね〜」としみじみしていたら、
「まさかー、目指していないよ」と、ピシャリ。

「彼は偏差値が高いでしょ。だから、一番偏差値が高い学部に行くの!」
「そういうものなの」「当然よねー」と、顔を見合わせ、うなづき合う姿に、
ちょっと鳥肌が立ってしまいました。

そういえば、以前、別の友達も、
「大学に行く目的は、一流の会社に就職するため」と断言し、
「一流企業に入らなければ幸せになれないから、幸せになるためには、まず、より高い偏差値の大学に行くべき!」と、当たり前の顔で話していました。


愉快な仲間
愉快な仲間

「偏差値」で決めた学部が、
ワクワクときめき、「好き」と感じられる場でありますように!

そう思わざるをえない、、、、💧

🌷

アラ還母
アラ還母

これらのエピソード、あなたはどう感じますか?


「勉強」って「遊び」みたい!と感じる学び

偏差値だけを基準にして、大学を選び、はたまた、偏差値が高いから、就職に有利だから、そんな理由で大学に進学し、学部を選ぶことが当然のことだとしたら、
わたしには、とても息苦しく、不自由なことに感じます。逃げ出したくなっちゃう💦

医者になるつもりなんかなくても、偏差値が一番高いから医学部に行く、
これが当たり前で、それを受け入れる「心」は、健全?
そんな動機で入学して、大学生活は、愉しいのかな~??
そんな風に子どもを、あるいは、親を仕向ける学校や社会って、どうなんだろか。。。?

「愉しい」と感じることや、「好き」なことをすることを、何より譲れないわたし、
と、いうより、

どちらかと言えば、

好きでないことや、興味のないことをし続ける根性や気力が全くないわたしは、

上記のような話を聞くと、本当にビックリしてしまいます。
大変だなぁ、と、ちょっと想像しただけで、めちゃくちゃ苦しくなってしまう。

わたしは、「好き」だけで、大学や学部を選びました。
だって、
高校までの学びを経験するなかで、

もう好きなことしか勉強したくない!」と、強く心が叫んでいたから。

この心の叫びには、どうしたって逆らえなかったから。

もしかしたら、わたしがレアケース? 我慢なし? 根性なし??

確かに、
一般受験より早い時期に、第一志望の大学に推薦で合格が決まったとき、
「一般受験で、ほかの大学に挑戦すべき」「国立大を受けるべき」「君は、楽な道を選んだ」などと批判する教師もいたし、
「推薦で文系に合格したとたんに、理系のテストの点数が大幅にダウンした」などと皆の前でわたしを非難する教師もいました。

でも、わたしは、

「好きな道」が「楽な道」ならば、そんなラッキーなことはないし、

嫌いで苦手なのに、受験のために「仕方なく」勉強をしていた科目については、
「もう、その勉強、わたしには限界!! もうしたくない!
どんなに教師に非難されても、赤点を取っても、嫌いなことを勉強し続けるよりマシ~」と、心で叫んでいました。

一方、
「好き」な科目は、受験が終わろうが関係なく、ずっと勉強を続けていたし、受験勉強から解放されて時間ができたから、さらに、じっくり深く、取り組むこともでき、ますます好きになって、胸は高鳴り、
「受験がなければ、こうしてドップリと時間を費やして好きな勉強ができるのになー」
「こんな時間がずっと続くと佳いな~」と願っていました。

そして、
わたしが選んだ大学・学部は、それが許される場で、
とはいえ、必修科目には心が弾まない科目も結構あったからキツいことももちろん経験したけれど、
大枠は、わたしが「ワクワク、ウキウキ」したり、得意だったり、興味があることを学ぶカリキュラム満載♡

”好き” をすることが【勉強】なんて、なんという幸せだ〜」と、
ときめいて、嬉しかったし、
実際、本当に愉しかった。

アラ還母
アラ還母

「勉強」って、「遊び」だったんだ~!

愉しい~!

そんな風に、感じて過ごしていました。

学校は、自分の「好き」や「嫌い」を見つける場 

わたしにとって、学校は
自分の「好きなこと」「嫌いなこと」を見つける場所だったように思います。
決して、偏差値を上げて、いい大学にいく、いい会社に入るための場所ではなかった。

地方の、ごく ”フツウ” の公立の小、中、高校で、ごくごく ”フツウ” に過ごしていましたが、
中学くらいまでの学びの間に、わたしは、将来、仕事にしたくなるような「これ、好きや、
逆に、なるべく距離を取って、できれば触れたくない「あー、これは嫌い💧」が、自分で分かっていました

「好き」なことを好きなだけしているときの高揚感と、
「嫌い」なことを無理してイヤイヤしているときの胸の鈍痛や息苦しさを味わっていたから、
大学を選ぶときも、当然のことのように、
やりたくない勉強や苦痛な学びは、避けて避けて避けまくって
「好き」や「ワクワク」を基準に、「自分の心が楽」な選択しかできなかったのだと思います。

当時、わたしの選んだ学部は、「就職に不利」だと多くから敬遠されていましたが、
わたしは、高3の時点で、「心が躍る仕事=文章を書く仕事」がしたい!と決めていたので、そのための勉強をするには最もふさわしい学科だと思っていたし、
不利とか有利なんていう ”幻想” みたいな確証のないことより、
目先の幸せである「大学で何を学ぶか」の方が断然重要。
「好きだけを学びたい!!」という気持ちだけが確かなことで、
わたしには、一番大切なことでした。

アラ還母
アラ還母

こんな選択の仕方しかできなかったけれど、自分の「心」に嘘をつかずに進路を選んだこと、本当に佳かった~と、今も思っています。

だって、キツいこともあったけれど、やっぱり、愉しかったから!



同じように、少なくとも、わたしの周りは、
高3の時点で、「好き」を基準に、
どんな仕事をして生きていきたいかを念頭に描きながら、進路を決めていました。

人生の決断は、ひとりよがりな「主観」を信じたい

「好き」で選べば、納得できる!

人それぞれ、何を基準にして人生の選択をしても間違いなんてことはないのですが、
わたしの場合は、単純明快、「好き」「ワクワク」がないことは本当に続かないし、愉しくない。つまんないし、面倒くさい、苦しい。

人生のさまざまな岐路に立ち、何かを決断するとき、
条件がいい!とか、評判がいい!といった、「世間」や「他者」が、”優れているよ” と称えるモノであっても、
自分がモヤモヤしたり、心が苦しくなるのであれば、それらを選ぶことはできなかった。

「わたしの人生」なのだから、

主観的な、”ひとりよがり” な自分の感覚のほうが、わたしにとっては、真実で、確かなもので、納得できるものでした。

アラ還母
アラ還母

”みんな” が「いいよ」「こうするべきだよ」ということより、

わたしが、「いい」「こうしたい」と感じることをする方が、

ずっとずっと信じられるし、心が楽ちん。気持ちが楽ちん!

ずっとずっと清々しい。

長いものに巻かれてしまった苦い経験

ところが、
そんなわたしだったのに、
出産して、
娘を育てるなかで、自分がブレてしまった、世間に流されてしまった😢と後悔することも多い。

娘が中学生くらいのとき、娘のため、娘を守るため、と願いながら、
”世間” に合わせたり、”権力” におもねたり、”自分の感覚” を曲げてしまうことが多々あって、
「愉しくない。つまんないし、面倒くさい、苦しい」ことも、たくさんたくさんしてきました。

というより、

先生や学校、親仲間などなど「世間の価値観」を優先し
「世間」の言うとおりにしなくちゃいけない、それが人生だ、と、思い込んでしまった。

いや、
心のどこかで「ちがう、ちがう」と叫んでいたのに、「自分の感覚」を見て見ぬフリをした、、。


いま、思えば、
娘らしく生きることを邪魔して、”世間の常識” ”教育の当たり前” という[型]に娘をカチッとハメようとしたのだから、
明らかに、それは、娘を追い詰めることで、
娘の個性や大切な「らしさ」や能力を潰す悪行なのに、
”世間の常識” や ”誰かの価値観” に、必死にしがみついてしまった自分に、腹が立ちます。

「 ”好き” かどうかでは、進路を選べないのよ」と言って、「偏差値重視」で生きている、あの母仲間らと、わたしも同じでした。
わたし自身の人生では「自分らしさ」を歪められることを何より嫌悪して生きていたのに、
娘のことになったら、簡単に長いものに巻かれてしまった、、、、。

あるセラピストさんとそんな話をしたとき、
「でもそれは、子どもの幸せを願っていたからこそ、ですよね」と言われて、

確かに、幸せを願っていたのは間違いない。アホだったけれど、必死だった。あのときのわたしの精一杯だった!

でも、

「娘の人生」を生きる「娘の感覚」を優先せずに、どうでもいい “他者の常識” を強制し、”何か”に支配されていた、あのときの自分を、やっぱり、殴りたい気持ちは消えない。

アラ還母
アラ還母

「他者の感覚」や「世間の評価」に従って、娘の「感覚」や自分の「感覚」を信じずに見ないフリをしたら、
結果、愉快ではなくなりました


選ぶ基準にしてきたものは、自分を幸せにしたのか

アラ還になって思うこと 「自分の感覚」を基準に、生きていたい!

こんな体験をしたからこそ、

「自分の感覚」よりも、
長いものに巻かれて、「他者」に合わせ、「他者」におもねてしまったという悔しさを、2度と味わいたくない!と心に決めて、

アラ還のいま、

日々、迷ったり、イライラしたり、困惑したりするとき、
あるいは、
何かの岐路に立ったとき、

誰かの作った「あるべき姿」に合わせようとしていないか、
自分の「心」は何と言っているか

自己を検証するように、意識的に心がけています。

気づかぬうちに、何かに支配され、長いものに巻かれてしまうことは簡単だから、踏ん張らないと、ね

アラ還母
アラ還母

意識的に心がけないと、つい、”世間” に引っ張られちゃう~💦

「自分」を信じた人だけがみることのできる素晴らしい景色

そして、

やっぱり、アラ還になって思うことは、

幸せを感じるために生きているので、嫌いなことはなるべくしたくない。
「好き」を基準に、生きていたい!ということ。

「好き」を続けていくなかで、もちろん、挫折や、悔しい思いや、もどかしいことも起きるけれど、
それは、「好き」という土台の上に起きていること。

他者から強制されたり、イヤイヤしているなかでの苦しさとは、似て非なるモノだと思っています。

そういえば、
好きなことをしていても、嫌いなことをしていても、辛いことがあるんだったら、
なおのこと、好きなことをする!

と、娘が10代のころに言っていました。

確かに (^^)/

ちなみに、
わたしと同じように、いやいや、わたし以上に、「自分の感覚」を曲げられない娘は、
わたしからの ” 呪縛 ” が解かれて以降は、なにかに捕らわれることなく、”自分の人生”を歩んでいます。
大学に進むかどうかを決める際も、進むとしたら「いつ受験するか」という時期も自分で決め、
塾に通わず、模試も一切受けなかったので、自分の「偏差値」も全く知らないまま、
「この勉強をしたい!」と、ただ「心が躍るかどうか」だけを基準に、受験校を決めていました。

社会人になった娘をみていても、わたし自身の過ごした道を振り返っても、
好き」を基準にして選んだ、広き自由な道を歩むことは、

たとえそこにキツい試練があっても、挫折があったとしても、
でこぼこ道で、遠回りだったとしても、
さらには、なんだか思っていたものとは違った😢と感じたとしても、

やっぱり、幸せなことだなと思います。

だって、
「好き」という気持ちに従って道を歩き続けることは、本当に「勇気」が必要で、

だからこそ、

「好き」を貫いて感じる気持ちは、嬉しさも苦しさもどんな気持ちも

「好き」を信じた人だけが知ることができる尊い真実
「自分」を信じた人だけがみることのできる素晴らしい景色なんだと思います。

そんな景色、みたいと思いませんか?

愉快な仲間
愉快な仲間

自分の感覚こそ信じたい! 
だって、だれのモノでもない「自分の人生」だから

ひとやすみ

中島みゆきさんの名曲『ファイト!』の歌詞が、「好き」を貫きたいとき、背中を押してくれています。

♪ ファイト! 闘う君の唄を 闘わない奴らが わらうだろう
  ファイト! 冷たい水の中を 震えながら のぼっていけ


中島みゆき『ファイト!』より引用

アラ還母
アラ還母

「自分の好き」を貫いて生きたいとき、
雑音に負けず、
震えながら恐れながら、
でも、
おもいっきり「好き」を貫けますように!

「いま」の「好き」をドンドン選びたい!

そして、
「好き」を基準に選んだとしても、「あれ? 苦しい😢」と感じるときは、
その苦しさが、幸せのために「必要な」苦しさなのかどうかを考えたいと思っています。

自分の心が自分を追い詰めていない? 
「好き」だと感じていたけれど、やってみたら違っていた?
この「好き」を続けていくことで、幸せを感じられる?

人も状況も変化するから、意固地にならず、柔軟に、
その場その場で、
自由に、立ち止まったり、方向転換したらいい
んじゃないかなー、と思います。

愉快な仲間
愉快な仲間

「昨日」の「好き」より、

「いま」の「好き」をドンドン選び取っていけたらいいな

「いま」の「幸せ」を選んだ話は、こちら↓

命を守るために、「いま、心がホッとすること」を優先しよう!
「過去のリベンジ」や「未来の不安」からでなく、「成果」「評判」にも執着せず、”いま心が喜ぶ” 方へ手を伸ばしたい。生活を支える相談窓口情報もご紹介。助けてくれるモノゴトにドンドン頼ろう!

「好き」や「ときめくこと」が特にない、見つけられない?

「好き」や「ときめくこと」が特にない、学校時代には見つけられなかった、という声もあるけれど、
そんな声を聞くたびに、

学校教育の何かが間違っているのだろうな、

と、感じてしまいます。

そもそも、誰もが、唯一無二として生まれている時点で、その人としてすでに完璧で、
誰かとおんなじような生き方をするなんて、そもそも無理な相談なのに、

一律の教育、つまり、年齢ごとに区切られて、同じ時期に、同じ方向を向き、同じような何かを目指すようなシステムに組み込まれ、
そのなかで、唯一無二同士の「あなた」と「わたし」を比べ合って競ったり。

個性が大切!といいながら、
カチンコチンの1つの型にはめて、
同じようなことを同じようにできなくてはいけない人間を作りだそうとしているように見えてしまう、いまの学校教育。

果たして、幸せを感じて生きるために相応しい教育なのかなぁ、と、常々、思っています。

学校という機関の教育課程のなかで、
自分の「好き」や「嫌い」、自分の「得意」や「苦手」を見つけられず、
あるいは、
「あ~、コレ、嫌だなぁ」や「コレ、好き!」にたとえ気づいていても、
その「自分の感覚」を抑えて、先生や親といった「他者の感覚」に従って過ごし続けてしまうと、

人生を生きる選択や決断をするときに、

「自分の感覚」を信じられず、
「自分の心」を優先できずに


”世間” や ”誰かの価値観” で選び、生きることにならないかな

結果、キツくないかなー、と思ってしまいますが、
いかがでしょうか。

愉快な仲間
愉快な仲間

どのひとも、「好き」「嫌い💧」の感覚を必ず味わっているはずだけど、
その「自分の感覚に従って決める」ことを邪魔する教育になっていない?

アラ還母
アラ還母

ブレない「自分」でいられる教育があればいいな。

ひとは、もともと、唯一無二のブレない「自分」として生まれているのだから

「好き」がなかったり、分からなくても、「嫌い」を避け、「いやだ!」と感じることはやらないと決めると、自ずと、「好き」を発見して居心地が良くなっていく話は、こちら↓

「イヤだ」という気持ちを大切にしたい/「居場所」=「安心」を知るために
誰がなんと言おうと、「イヤだ!」と感じるならば、それは「 しなくていい我慢 」。自分の心の声を聴き、「しなくていい我慢」を「しない勇気」を持てば「自分らしさ」を取り戻せる!毎日が「好き」でいっぱいになる(^^)

あとがき



好きなことをしていれば、心が満たされます

心が満たされたら、自分を肯定でき、
だれかと自分を比べて嫉妬したり、優越感劣等感を持つこともなく、「いじめ」の心も起きず
愉しい毎日を過ごせるのに、

どうして、わたしたちは、「自分の好き」を貫いて生きることをためらうのだろう。
どうして、わたしたちは、「自分の好き」を貫いて生きている人たちを受け入れられないのだろう。
どうして、教育は、ひとりひとりの「好き」を大切にして、伸ばそうとしないのだろう。

そんなことを、考えて、記者時代もそんな記事を書いてきましたが、
一方で、
ようやく、ひとそれぞれ、「好き」を活かして、ありのままで生きる「多様な生き方」を尊重する機運が高まってきたのかな、とも感じます。

若い世代の、軽やかな発想や、「自分の感覚」を貫いて生きる姿勢をみると、とても頼もしくて、嬉しくなります。スゴいな~と、感動します。

アラ還のわたしたちも見習わなくちゃ、ね。

もっと柔軟に、
ひとりひとり、自分にも、あの人にも、「得意」や「好き」があって、「苦手」や「嫌い」があることを、受け入れたい

自分の家族が、子どもが、隣のあの人が、
自分とは違う「感覚」で、
自分とは違う「好き」を持ち、自分とは異なる「生き方」をする
ことを、
ごく当たり前のこととして、尊重し、大切にしたい

自分ができないことをできる誰かに劣等感を抱き、嫉妬することもなく、
優越感で誰かを見下すこともなく、
対等に、称え合って、補い合い、支え合えるように。

皆が皆、おんなじようなオールマイティーにならなくてよくて、そんな必要は全然なくて
ひとりひとりが持っている「好き」で輝ける社会

好きだから、ワクワクするから、
そんな理由で、学校を選び、仕事を選び、人生を選び、
生きていける社会。

そのために、
子どもの頃から、「好き」を知り、「好き」を活かして、突き詰めていける「教育」があればいいな。

そんな風に大人になって、
それぞれが、
「好き」なことで社会に参加
できたら、

誰かと比べることも、何かに強制されることもなく

自分は自分、他者は他者、それぞれの「生き方」で、
「自分の幸せ」を感じられるのではないかなー、

だって、「好き」な気持ちは最強だから!

と、思うのですが。

アラ還母
アラ還母

ひとりひとりが、自分の「好き」を軸に、「好き」を極めて生きる、

そんな社会は、夢物語でしょうか

ひとやすみ

人生って、
「できる」か「できない」か、ではなくて、「やる」「やらない」か
コレにつきるのではないかしら。

「できる」から「やる」も、心が躍れば佳き!「好き」と「得意」が合わされば最強!

でも、
「できなくても」「苦手でも」、

「好き」だから「やる」! 
「愉しい」「ワクワクする」から「やる」!

アラ還になり、ますます、
ヘタでも 向いていなくても ダメでも そんなことは関係なくて、
ただ「好き」なことは、「やる!」と思うようになりました。



「お福わけサロン」へようこそ
アラ還母(元新聞記者)まやみ佳が、困ったときに専門家から学び実践し癒やされた「考え方」や「方法」、先達が教えてくれた、自分らしく、愉しく生きる「知恵」や「ヒント」をお福わけ。

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